吹田操車場
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吹田操車場(すいたそうしゃじょう)とは、旧国鉄時代、日本の鉄道貨物輸送の中心であった数ある操車場の一つであり、東海道本線吹田駅と千里丘駅間における貨物線上に存在した。
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[編集] 発祥
鉄道国有化以降、鉄道貨物輸送は増加の一途をたどり、それまで各駅で行ってきた貨車の入換作業能力にも限界が来つつあり、なによりも非効率であった。そこで、操車専用の駅を本線上に設け、操車場間を結ぶ貨物列車と操車場と周辺の貨物取扱駅(一般駅、貨物駅)を往復する貨物列車(これを解結貨物列車と称する)を走らせることで、全体としての操車能力の大幅な増強と効率化を図ることにした。その「操車専用の駅」こそが操車場である。
東海道本線は今も昔も日本の交通の大動脈であったので、特に多数の貨物列車が走行していた。まして大阪は交通の要衝であるばかりでなく、経済、産業などのあらゆる意味で日本の重要都市であったので、貨物需要が相当数あり操車場建設の要請は充分だった。
以上の経緯から、1923年7月、大阪を通る貨物や大阪を発着地とする貨物を捌く一大操車場、吹田操車場が建設・開業した。
[編集] 発展
吹田操車場は開業当初から期待通りの活動をした。その構内線路総延長約150キロ、一日最大貨車取扱可能量6000両はいずれも廃止に至るまで日本国内の貨車操車場で最高であり、「東洋一の操車場」と称えられ、日本三大操車場の一つ(残り2つは新鶴見操車場と稲沢操車場)にまで数えられた。特筆すべきはこの操車場がハンプヤードであることで、しかも日本の操車場で唯一2つのハンプ(上り用と下り用)を備えていた。吹田操車場の開業に伴い、吹田市は鉄道産業の町として発展を遂げ、同時に巨大なビール工場を抱えていた吹田市は「ビールと操車場の町」として全国に知られるようになった。
また、入換用機関車の車庫として吹田機関区が併設されたが、後に本線走行用の機関車が多数配属されるようになった。
[編集] 取扱貨物
吹田操車場は「駅」を名乗っていなかった(もし名乗った場合は吹田操駅と改称していたことになる)が、実際には専用線発着の貨物の取扱も行っており、一般的な意味での「貨物駅」としての一面も持っていた。
これらの貨物は書類上、吹田駅における取扱、とされていた。吹田駅ではアサヒビール吹田工場の貨物取扱も行っていた。
[編集] 路線系統
吹田操車場と連絡する路線は以下の通り。
- 東海道本線上り方面:梅小路操車場、米原操車場、稲沢操車場、…
- 北方貨物線(東海道本線下り方面):尼崎駅 (JR西日本)、東灘操車場、姫路操車場、岡山操車場、…
- 梅田貨物線:梅田駅、安治川口駅、浪速駅(2006年3月廃止)、大阪港駅(1984年2月1日廃止)、大阪市場駅(1984年2月1日廃止、現在の野田駅西方にあった)
- 城東貨物線(→関西本線、片町線):淀川貨物駅(1982年11月15日廃止)、放出駅、百済駅、竜華操車場(1984年2月1日廃止)
- 福知山線(→山陰本線):川西池田駅、北伊丹駅、福知山駅、…
[編集] 吹田事件
- 詳細は吹田事件を参照
朝鮮戦争勃発後、在日米軍の軍需輸送が増大し、そのほとんどを発足間もない国鉄(日本国有鉄道)が引き受けていた。 そんな中の1952年6月25日、朝鮮戦争に反対するデモ隊数千人(そのほとんどは在日朝鮮人で、残りは学生、労働者)が「国鉄は朝鮮半島の同胞を死に追いやる物資を輸送している」として、抗議の意志を示すためにそのデモ隊が吹田操車場内に入り込み、軍需列車の走行を阻止しようとした。結果的に当日軍需貨物列車は走らず、やがて大阪駅に移動したデモ隊と警官隊が交戦、大勢の死傷者・逮捕者を出す騒ぎとなった。その後の裁判で被告人たちは三審いずれも無罪判決だった。
[編集] 斜陽化
太平洋戦争終了後も吹田操車場の取扱貨車両数は増え続け、やがては限界である1日6000両の貨車を取り扱うこともあった。
しかし1970年代以降は、日本のモータリゼーションが進行し、同時に貨物輸送の合理化・迅速化を図る国鉄は途中入換作業不要のコンテナ専用列車を設定するようになり、吹田操車場をはじめとする全国の操車場で業務が減少していった。鉄道貨物輸送自体の減少に加え、操車場での入換作業を要する貨車はほぼ全てが車扱の貨車であり、コンテナ輸送と比べて非効率だったからである。
国鉄側も当初は操車場経由式輸送を見限るのではなく入換作業の効率化・迅速化を図り、一部の操車場のコンピューター化を行ったが、財政難と操車場施設のあまりの広大さゆえに吹田操車場は最期までコンピューター化なされなかった。
国鉄末期のダイヤ改正では毎回のごとく貨物列車が削減されていったが、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正において操車場経由式輸送が全廃されたことで吹田操車場も他の多くの操車場と同様にその歴史に幕を閉じた。現在は大半が広大な空き地となったほかは吹田信号場として機能している。
[編集] 吹田操車場跡地における貨物駅建設計画
1987年、旧国鉄の負債を返済するべく、梅田駅移転及び旧梅田駅跡地の売却計画がスタートした。これは当初は、梅田駅の貨物取扱施設を吹田操車場跡地及びに移転(仮称、吹田貨物ターミナル駅)させて跡地を商業用地として売却、売上金を負債返済に充てるというものだった。
ところが計画当時のバブル経済がはじけて地価は暴落したため梅田駅移転の意義が失われ、その上吹田市や摂津市においてトラックの走行による公害を危惧する地元住民による移転建設反対運動が起こったことから、地元の理解が得られず、1997年6月に、国鉄清算事業団は約半分の機能を移転する計画を提示した。これを受けて1999年1月、大阪府、吹田市、摂津市、日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部(当時)、JR貨物の5者は移転計画に関する基本協定書を締結し、鉄道・運輸機構は2005年1月、吹田・摂津両市に環境影響評価書を提出し、5者は2006年2月、吹田貨物ターミナル駅建設事業の着手合意協定書を締結し、2007年1月30日に起工式が挙行された。
事業主体は鉄道建設・運輸施設整備支援機構国鉄清算事業本部であり、梅田駅の機能の約半分が移転される。残り約半分は関西線百済駅を全面改修して移転し、両駅の完成後に梅田駅を更地にして処分する。吹田操車場跡地約50.2haのうち貨物駅は27.2haを使用し、23haはまちづくり用地である。
吹田貨物ターミナル駅は、入換え作業なしでコンテナ列車を荷役できる着発線荷役方式である。施設は、コンテナホーム2面(北側13300平方メートル、南側22300平方メートル)、中継コンテナホーム1面24400平方メートル、駅本屋(鉄筋コンクリート造り4階建て、延べ床面積1600平方メートル)、倉庫(鉄筋コンクリート造り3階建て、8000平方メートル)、着発線2線、留置線4線など。
年間貨物取扱量は100万トン以内(中継貨物除く)、始発・終着列車は12本以内、車両編成はコンテナ貨車26両以内とし、出入りする貨物関連自動車は1日往復1000台以内に限定する。貨物専用道路(3.1キロ)も設置する。
[編集] 歴史
- 1923年7月1日、吹田操車場開業。
- 1925年10月15日、北方貨物線吹田操 - 宮原信号場(本線との吹田側分岐点)に専用の複線が設置。
- 1928年12月1日、梅田駅開業に伴い、梅田貨物線吹田 - 梅田間が開業(1934年までは吹田でなく上淀川信号場起点)。
- 1932年7月8日、城東貨物線吹田操 - 放出駅が開業。後に貨物線は関西本線平野駅、竜華操車場まで延伸。
- 1952年6月25日、吹田事件発生。
- 1968年6月2日、構内で貨物列車と入換用機関車が正面衝突事故。
- 1978年10月2日、国鉄ダイヤ改正。当時史上最大規模の貨物列車大幅削減。これ以降、取扱貨車両数も大きく下降する。
- 1980年10月1日、国鉄ダイヤ改正。さらに貨物取扱量が削減。
- 1982年11月15日、国鉄ダイヤ改正。大阪貨物ターミナル駅開業と同時に、同駅 - 吹田操間の連絡線開業。
- 1984年2月1日、国鉄ダイヤ改正。吹田操車場廃止、吹田信号場開業。
- 1987年4月1日、JRグループ発足、同時に日本国有鉄道清算事業団発足。梅田駅の施設移転計画が明らかに。
- 2007年1月30日、吹田貨物ターミナル駅起工式。