大阪フィルハーモニー交響楽団
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大阪フィルハーモニー交響楽団(おおさか - こうきょうがくだん、Osaka Philharmonic Orchestra)は、大阪市に本拠をおく日本を代表するオーケストラ。
目次 |
[編集] 概要
年間10回の定期演奏会のほか、レコーディングも活発に行う。大阪市西成区岸里に専用練習場大阪フィルハーモニー会館を持ち、長年にわたり「大フィル(だいふぃる)」の愛称で親しまれている。公式サイトに掲載されている「プロフィール」によれば、「日本で一番多くレコード、CDを発表しているオーケストラ」。
創立者(現創立名誉指揮者)朝比奈隆の時代に、ブルックナーやベートーヴェンなどの交響曲の演奏で全国的に知られるようになった。1975年10月12日リンツの聖フローリアン教会でのブルックナーの交響曲第7番や、1994年7月24日サントリーホールでの交響曲第8番などの名演の多くは、今日でもCDで聴くことができる。
2003年に大植英次が音楽監督に就任し、同年5月9日及び10日のザ・シンフォニーホールでの音楽監督就任披露演奏会でマーラー交響曲第2番「復活」、2005年3月20日サントリーホールでの就任後初の東京定期演奏会でマーラー第6番「悲劇的」を取り上げ、いずれも大成功を収めた。大植英次音楽監督の指揮で、定期演奏会では演奏会形式のオペラ(サムソンとデリラ(2004年)、トスカ(2005年))も披露しているほか、近代曲などもとりあげている。
朝比奈隆の時代から、ヨーロッパ(とりわけドイツ,オーストリア)のオーケストラの音に連なる、独特のいわゆる「大フィルサウンド」に固定ファンも多く、大フィルの音はすぐにわかる(ほど個性的)、と評される。朝比奈隆時代の最後は、コンサートマスターに岡田英治と梅沢和人、第二ヴァイオリンの首席に藤井允人を擁していた。2004年9月から、梅沢和人に加え、首席コンサートマスターロバート・ダヴィドヴィッチ(Robert Davidovich)、首席客演コンサートマスター長原幸太が就任。2006年4月から、首席コンサートマスター長原幸太、コンサートマスター梅沢和人の体制になった。
[編集] 年譜
- 1947年 朝比奈隆が中心になり、関西交響楽団として設立。
- 1月17日 前年の10月に満州から引き揚げてきたばかりの朝比奈隆を中心に、大阪放送管弦楽団(大阪中央放送局(現在のNHK大阪放送局)所属のオーケストラ)、宝塚歌劇団、京都大学の各オーケストラの主要メンバー約70名が大阪中央放送局に結集し、新しいオーケストラ結成の意思表明を行う。いわば大フィル「旗揚げ」の日である。
- 3月中旬 新しく結成されたオーケストラを「関西交響楽団」と命名。
- 4月26日 関西交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により戦災に焼け残っていた朝日会館にて行う。関響では1953年1月の第57回定期まで定演は原則として二日公演で行われ(1950年のみ一部に一日のみ公演、一日二回公演あり)、第1回も翌27日との二日公演であった。演奏曲目は、「リエンツィ」序曲、「新世界より」他。
- 1950年
- 1953年 関西交響楽団として初の東京公演。
- 1960年
- 4月2日 関西交響楽団として最後となった第125回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロピアニストに賀集裕子を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロミオとジュリエット」、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番という、当時の朝比奈隆が最も得意としていたオール・チャイコフスキー・プロで臨み、関西交響楽団としての13年間にわたった演奏活動の掉尾を飾った。
- 大阪フィルハーモニー交響楽団に改称。定期公演の回数は、改称とともに改めて1から勘定している。
- 5月14日 大阪フィルハーモニー交響楽団第1回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により毎日ホールにて行う。ソロヴァイオリニストに辻久子を迎え、演奏曲目は、カバレフスキー組曲「道化師」よりプロローグ、ギャロップ、ワルツ、パントマイム、スケルツォ、エピローグの6曲、ハチャトゥリアンヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチ交響曲第5番であった。この当時のコンサートマスターは小杉博英(1951年就任)。この演奏会は、大手紙の関西文化欄等において、「練習不足が目立つ」(朝日)、「前途多難」(毎日)、「演奏に熱気が感じられた」(読売)、「再建の気迫欠く」(産経)と報じられた。
- 1961年
- 6月 安田英郎がコンサートマスターに復帰。以後、1980年1月に交通事故で急逝するまで、19年間の長きにわたってコンサートマスターを務めた。
- 9月 初の外国人コンサートマスターとして、ブレーメン交響楽団よりマルチン・バウエルトを招聘。
- 1962年
- 1968年
- 4月17日 第67回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに園田高弘を迎え、演奏曲目はR.シュトラウス「23弦楽器のための変容」、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ブラームス交響曲第3番であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールから大阪厚生年金会館大ホールに移す。
- 1970年
- 9月21日 第85回定期演奏会を朝比奈隆の指揮により行う。ソロピアニストに荒憲一を迎え、演奏曲目はシューベルト交響曲第2番、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番「皇帝」、R.シュトラウス交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」であった。この回より定期演奏会の会場をフェスティバルホールに戻す。
- 1971年
- 1972年
- 1975年
- 1977年
- 1984年
- 1985年
- 1991年
- 7月 大阪市西成区岸里(現在地)に「大阪フィルハーモニー会館」が完成。交響楽団、協会がともに移転。これにより、交響楽団がかねてから念願の自前の練習場を確保するとともに、楽団と協会の同居を実現した。
- 1995年 大植英次初めて大阪フィルを客演指揮、1996年に再度客演指揮。
- 1月17日 第285回定期演奏会が阪神淡路大震災のため中止となる(関響、大フィルを通じて、定期演奏会が中止となったのはもちろんこの回のみである)。幸いにも、大フィル団員の方々及びそのご家族に震災による犠牲者はなかった(第286回定期演奏会プログラムの冒頭に掲載された「謹告」による)。この後、1月30日より演奏活動を再開した。
- 1996年
- 2001年
- 10月24日 大阪フィルハーモニー交響楽団2001年秋名古屋演奏会を、朝比奈隆の指揮により愛知県芸術劇場コンサートホールにて行う。ソロピアニストに小山実稚恵を迎え、演奏曲目はチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番、交響曲第5番であった。終演後拍手は鳴り止まなかったが、朝比奈隆は極度の疲労のためカーテンコールに応えることができなかった。この公演の直後、体調不良により入院。病床から願い続けた復帰は遂に叶えられることがなかったため、この名古屋演奏会でのチャイコフスキーが朝比奈隆の指揮台での最後の姿となった。最後の舞台のプログラムは朝比奈がその長かった指揮者人生で一貫して得意中の得意としてきたチャイコフスキーであり、しかも、奇しくも1960年4月2日における関西交響楽団最後の定期演奏会のプログラムとほぼ同じであったことは、単なる偶然とは片付けられない運命的な巡り合わせを感じさせずにはおかない。なお、チャイコフスキーの交響曲第5番は朝比奈最後の演奏会から5年後の同月、2006年10月の第402回定期演奏会において音楽監督大植英次の指揮で演奏された。
- 12月29日 大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督朝比奈隆逝去。享年93。
- 2003年 定期演奏会の会場をフェスティバルホールからザ・シンフォニーホールに移転し、二日間公演とする。
- 5月9,10日 大植英次音楽監督就任披露定期演奏会(本文参照)。
- 2005年
- 3月20日 大植英次音楽監督就任後初となる第42回東京定期演奏会(本文参照)。
- 2006年
- 4月29日 大阪城西の丸庭園において、大植英次音楽監督の指揮により楽団史上初の野外コンサートを開催。9300人以上を動員する一大イベントとなり、大成功を収める。演奏曲目は、「キャンディード」序曲、「惑星」より"木星"、序曲「1812年」、「ローマの松」より"アッピア街道の松"他。
- 7月6,7日 第400回定期演奏会を、正式の演奏会では初の客演となる大野和士の指揮により行う。ソロ打楽器奏者に中村功を迎え、演奏曲目はモーツァルト交響曲第33番(定期初演)、細川俊夫作曲打楽器協奏曲「旅人」、ショスタコーヴィチ交響曲第15番であった。
- 9月3-9日 大植英次音楽監督のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と大阪市の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演を展開。期間中、大阪市のメインストリートである御堂筋ぞいの18の会場において、大阪フィルハーモニーの団員による室内楽など計50公演(ごく一部の団員が出演しない公演をも含んだ数)を行う。大植音楽監督によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。主催者側の当初予想を2倍以上上回る入場者数延べ約22000人を達成、大成功を収める。
- 2007年
[編集] 常任指揮者/音楽監督など
ほか、秋山和慶、外山雄三、若杉弘などが常任指揮者やミュージックアドヴァイザーなどとして在任した。