交響曲第8番 (マーラー)
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交響曲第8番(こうきょうきょくだい-ばん、ドイツ語名:Symphonie Nr. 8)変ホ長調はグスタフ・マーラーが作曲した8番目の交響曲 。
目次 |
[編集] 概要
マーラーの「ウィーン時代」の最後の作品であり、同時にマーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品となった。 第8番の編成は、交響曲第7番までつづいた純器楽から転換し、大規模な管弦楽に加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する、巨大なオラトリオあるいはカンタータのような作品となっている。構成的には従来の楽章制を廃した2部構成をとり、第1部では中世マインツの大司教フラバヌス・マウルス(776?~856)作といわれるラテン語賛歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」、第2部では、ゲーテの戯曲『ファウスト』の第2部終末部分に基づいた歌詞が採られている。音楽的には、音階組織としての調性音楽からは逸脱していないが、大がかりな編成、極端な音域・音量、テキストの扱いなどに表現主義の特質が指摘されている。
演奏規模の膨大さから「千人の交響曲」"Symphonie der Tausend"の名で広く知られているが、これはマーラー自身の命名ではなく、初演時の興行主であるエミール・グートマンが初演の宣伝用ポスターにこの題名を使ったものである。マーラーはこのキャッチフレーズを嫌っていたとされる。この初演については後述するが、マーラーの自作演奏会として生涯最大の成功を収めたと同時に、近代ヨーロッパにおいて音楽創造が文化的事件となった例のひとつとなった。
この曲についてマーラーは、ウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べている。また、「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」とも書いている。
このように、第8番はマーラーの作品中最大規模であるだけでなく、音楽的にも集大成的位置づけを持つ作品として、自他ともに認める存在であった。にもかかわらず、現代において、マーラーの交響曲中でも演奏機会に恵まれず、評価・解釈としても言及されることが少ない。これには、巨大な編成のために演奏者や会場の確保など演奏会の興行自体が難しいこと、一般的な「交響曲」の枠組みから見て変則的な構成をとっていること、さらには、曲の性格がきわめて肯定的で壮大な賛歌であり、つづく『大地の歌』や交響曲第9番などに象徴される、厭世観や死との関連あるいは分裂症的などと評されるマーラー作品への一般的な印象や理解とかけ離れていること、が挙げられる。
演奏回数こそ少ないものの、その壮大さから、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」最終話の終盤等、多くの作品で、最も盛り上がる場面におけるBGMとして使われることが多く、日本国内では、マーラーの交響曲の中でも比較的有名な部類に入る。
演奏時間約90分。
[編集] 作曲の経過
[編集] マーラーの奮闘と周囲との軋轢
- ウィーン宮廷歌劇場におけるマーラーの妥協を許さない「完全主義者」ぶりは、歌劇場内外で波紋を呼んでいたが、マーラーが1903年ごろからしばしばウィーンを離れて自作交響曲を指揮して回るようになったことが、反ユダヤ主義の影響のもと、いっそうウィーンの聴衆・批評家たちの反感を買うようになっていた。一方で、マーラー自身も自作の演奏機会の拡大とともに、より作曲に専念できる環境を求めるようになっており、歌劇場での活動との両立が困難になり始めていた。
- 1905年秋、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』をウィーン宮廷歌劇場で上演しようと尽力するが、検閲のために果たせなかった。このことは、後にマーラーが歌劇場を辞任する遠因となった。
- 1905年11月から始まった、アルフレート・ロラーの舞台装置と新演出によるモーツァルトのオペラ・チクルスは、11月24日の『コジ・ファン・トゥッテ』を皮切りに、12月21日『ドン・ジョヴァンニ』、翌1906年1月29日『後宮からの逃走』、3月30日『フィガロの結婚』、6月1日『魔笛』とつづいた。
- 1906年5月27日、エッセンで自作の交響曲第6番を初演。このときロシアのピアニスト、オーシップ・ガブリロヴィチと知り合う。ガブリロヴィチは、後にアメリカでマーラーの音楽の普及に努めた。
- 1906年の夏のオフ・シーズンにはザルツブルク音楽祭への出演等があり、これまでのように夏の休暇中を作曲時間の確保に当てることも難しくなってきた。
[編集] 第8交響曲の作曲
- 1906年の夏、ヴェルター湖畔マイヤーニッヒの作曲小屋で交響曲第8番を作曲。第1部はわずか3週間でスケッチ、8月18日には全曲を完成した。翌1907年の夏にオーケストレーションされ、妻アルマに献呈されている。
- マーラーの初期構想では、4楽章構成であった。パウル・ベッカーによれば、当初のスケッチは以下のとおりである。
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- このうち第2楽章と第3楽章は、交響曲第4番の初期構想であった「フモレスケ交響曲」のスケッチから、他の曲に採用されなかった断片を使うつもりだったが、ゲーテの『ファウスト』を歌詞に採用するに当たって、これらは削除、あるいは第2部へ統合されることになったものと見られる。
- アルマの回想によると、マーラーは最初の二週間はスランプがつづいたが、ある朝、作曲小屋に足を踏み入れた瞬間に“来たれ、創造主たる聖霊よ”の一句がひらめき、うろ覚えのラテン語歌詞をもとに第1部を一気に書きおろした。しかし音楽が歌詞より長くなってしまい、マーラーはウィーンから賛歌の全文を電報で入手したところ、送られてきた歌詞はマーラーの音楽にぴったり収まっていたという。
- 実際には、マーラーは6月21日付けの手紙で友人のレールに、ラテン語賛歌の翻訳を手伝ってくれるように頼んでいる。また、マーラーは音楽に合わせて原詩を削除・入れ替えしたり、一部にはマーラー自身が加筆創作してもともと7節だった原詩を8節に拡大しており、アルマのいうような詩と音楽の「神がかり的」な合致があったわけではない。これについて柴田南雄は、「来たれ、創造主」の賛歌はカトリック教会では聖霊降臨節の晩課をはじめ、種々の儀式にグレゴリオ聖歌として歌われるものであり、マーラーがドイツ語のミサ典書か祈祷書を持っていれば容易に訳文を目にすることができたはずだと指摘している。このことは、マーラーのユダヤ教からカトリックへの改宗自体が宗教的理由からではなく便宜的なものであったことをも示唆するものである。
[編集] 宮廷歌劇場辞任へ
- 1906年10月、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーがウィーン宮廷歌劇場と指揮者の契約を結ぶ。
- 翌1907年1月、自作の交響曲第6番をウィーンで、交響曲第3番をベルリンで、交響曲第4番をフランクフルトで、交響曲第1番をリンツでそれぞれ上演したが、シーズン中に休暇をとって自作の演奏旅行をしたことで、ウィーンでのマーラー批判が一気に吹き出し、音楽界ほぼ全体が敵となった。このころには、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とマーラーの仲介役だった宮廷大元帥モンテヌオーヴォ公爵との関係も冷えてしまっていた。
- 翌1907年2月、アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番、室内交響曲第1番の初演を聴き、シェーンベルクの音楽を熱烈に支持する。
- 同年3月18日、ロラーの舞台装置でグルックの『アウリスのイフィゲニア』の新演出を上演。これがマーラー最後の新演出となる。
- 5月にウィーンで『サロメ』のオペラの初演を果たすが、6月5日、ベルリンでニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の支配人ハインリヒ・コンリートと会い、翌シーズンから同歌劇場の指揮者として就任することを承諾、21日に正式に契約を取り交わした。マーラーはこの時点で渡米の決意を固めたことになる。
- 7月12日、夏の休暇先マイヤーニッヒで長女マリア・アンナ死。その直後にマーラー自身も心臓病の診断を受ける。
[編集] 初演と出版
[編集] 初演
1910年9月12日及び13日、ミュンヘンにて、マーラーの指揮による。マーラーは、この年4月にアメリカで交響曲第9番を完成した後、3度目のヨーロッパ帰還を果たしてこの初演に臨んだ。夏にはトプラッハで交響曲第10番に着手している。
初演は「ミュンヘン博覧会1910」(Ausstellung München 1910)と題された音楽祭の一環として行われた。エミール・グートマンの企画によるこの音楽祭は、ほぼ4ヶ月にわたる大規模なもので、フランツ・シャルク指揮ウィーン楽友協会合唱団によるベートーヴェンのミサ・ソレムニスやゲオルク・ゲーラー指揮ライプツィヒ・リーデル協会合唱団によるヘンデルのオラトリオ『デボラ』の上演も行われている。マーラーの第8交響曲は、この音楽祭のメインイベントとして位置づけられていた。初演は鳴り物入りで予告・宣伝され、12日、13日ともに3000枚の切符が初演2週間前には売り切れた。演奏会には各国から文化人ら(後述)が集まり、演奏後は喝采が30分間続いたという。
曲は850人程度で演奏可能であるが、初演時には出演者1030人を数え、文字どおり「千人の」交響曲となった。内訳は、指揮者マーラー、管弦楽171名、独唱者8名、合唱団850名。合唱団には音楽祭に参加していたウィーン楽友協会合唱団250名、リーデル協会合唱団250名に、ミュンヘン中央歌唱学校の児童350名が加わった。
マーラーは少なくとも初演の1年前から準備に取りかかっている。練習は、編成が巨大で一堂に会することが困難なために、各地で分散して行われた。9月5日からの1週間を総練習に当て、様々な組み合わせで1日2回実施したという。マーラーはこの総練習の過程で、アルマに宛てた手紙で合唱団や合唱の練習を担当したシャルクの無能ぶりを厳しく批判したり、演奏会直前になって、興行主のグートマンにコンサートマスターの交代を要求したり、相変わらずの完全主義者ぶりを見せている。
会場は、博覧会会場である新祝祭音楽堂で、コンクリートとガラスを主に使用した、当時としては先進的な建造物であった。音楽ホールとして設計されたものではなかったため、マーラーは興行主のグートマンに対して音響的な配慮や照明効果まで、細かく配慮を求めた。また、ウィーン宮廷歌劇場時代の同志であったアルフレッド・ロラーを呼び寄せ、会場の補修工事を行わせている。
初演から8ヶ月後の1911年5月18日、ウィーンでマーラーは没した。マーラーの死後、1911年の秋から翌春にかけて、第8交響曲はウィーンだけで13回上演されている。
[編集] 初演参加者
この初演への参加者は次のとおり。
- 音楽家 アルノルト・シェーンベルク、ブルーノ・ワルター、ウィレム・メンゲルベルク、クラウス・プリングスハイム、オットー・クレンペラー、アントン・ウェーベルン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、フランツ・シュミット、ジークフリート・ヴァーグナー、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、セルゲイ・ラフマニノフ、レオポルド・ストコフスキー
- 文学者 アルトゥル・シュニッツラー、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、シュテファン・ツヴァイク、トーマス・マン、ジョルジュ・クレマンソー
- その他 アルベール1世(ベルギー国王)、バイエルン王国皇太子、ヘンリー・フォード
以上のうち、ストコフスキーはこの曲のアメリカ初演者(1916年)である。また、マンは、初演後に讃辞とともに自著をマーラーに贈っている。
[編集] 出版
- 1911年、ウィーンのユニヴァーサル社より出版。このとき、マーラーは同社に口添えし、アルマが結婚前に作曲していた歌曲を集めた楽譜を同じ装丁にして同時出版している。
- 1977年、エルヴィン・ラッツ監修、国際マーラー協会による「全集版」が同社から出版。現在はこの版による演奏が一般的である。
[編集] 楽器編成
[編集] 管弦楽
- フルート 4、ピッコロ 複数、オーボエ 4、コーラングレ 1、ソプラニーノクラリネット 複数、クラリネット 3、バスクラリネット 1、ファゴット 4、コントラファゴット 1
- ホルン 8、トランペット 4、トロンボーン 4、チューバ 1、(離れた場所で)トランペット 4 (第1は複数)、トロンボーン 3
- ティンパニ 3台、バスドラム 1、シンバル 3人、タムタム、トライアングル、低音の鐘 2、グロッケンシュピール 1、
- チェレスタ 1、ピアノ 1、オルガン 1、ハルモニウム 1
- ハープ 2パート(いずれも複数)、マンドリン 複数
- 弦五部(コントラバスはC弦付きのもの)
[編集] 声楽
- ソプラノ独唱 3、アルト独唱 2、テノール独唱 1、バリトン独唱 1、バス独唱 1
- 第2部では独唱者に次のような役割が当てられている。
- 罪深き女(第1ソプラノ)、懺悔する女(第2ソプラノ)、栄光の聖母(第3ソプラノ)、サマリアの女(第1アルト)、エジプトのマリア(第2アルト)、マリア崇拝の博士(テノール)、法悦の教父(バリトン)、瞑想する教父(バス)
- 児童合唱 1、混声合唱 2
[編集] 楽曲構成
2部構成による。第1部は教会音楽的かつ多声的であり、第2部は幻想的かつホモフォニー的であるが、両部は主題的に緊密に構成され、統一された印象を与える。
[編集] 第1部
賛歌「来れ、創造主なる聖霊よ」(歌詞はラテン語) アレグロ・インペトゥオーソ 変ホ長調 4/4拍子 ソナタ形式
オルガンの重厚な和音につづいて合唱が「来たれ、創造主たる精霊よ」と歌う。これが第1主題で、主音から4度下降し、7度跳躍上昇する音型は、全曲の統一的な動機となっている。交響曲第7番の第1楽章第1主題(主音から4度下降し、6度跳躍上昇)との関連も指摘されている。男声合唱によって推進的な経過句が現れる。第2主題は落ち着いた旋律をソプラノ独唱が「高き恵みをもって満たしたまえ」と歌い、各独唱者による重唱となる。小結尾では、やや懐疑的な旋律や高みを目指すような動機も現れる。
展開部は懐疑的な旋律で静かに始まるが、やがて合唱が第1主題の動機に基づく新しい旋律を勢いよく歌い始める。二重フーガなど対位法的な展開を駆使してきびきびとかつ壮麗に進み、圧倒的な頂点を築いたところで第1主題が再現する。コーダは管弦楽のみで第1主題の動機を扱うが、児童合唱が入ってきて第1主題の動機に基づいて「主なる父に栄光あれ」と歌い、Gloriaの歓呼で高まっていく。第1主題の動機を繰り返して白熱し、華々しい金管の響き、高揚をつづける合唱で結ばれる。
[編集] 第2部
長大な第2部は、旧来の交響曲の構成に則り、アダージョ、スケルツォ、終曲+コーダとという部分に分けて考えることができる。
第1の部分は変ホ短調のポコ・アダージョで、管弦楽と合唱による自然描写の部分とそれにつづく「法悦の教父」(バリトン独唱)、「瞑想する教父」(バス独唱)までである。
第2の部分ではアレグロとなり、天使たち(児童合唱)が登場し、「マリア崇拝の博士」(テノール独唱)を加えて歌われる。
第3の部分では、テンポをアダージッシモに落とし、管弦楽のみでハープの分散和音を伴い静かに歌われる旋律に合唱が入ってくる。その後、「罪深き女」(ソプラノ独唱)、サマリアの女(アルト独唱)、エジプトのマリア(アルト独唱)が順次登場し、グレートヒェン(ソプラノ独唱)の短い歌唱を挟んで、先の3人による重唱となる。次いでグレートヒェンが「懺悔する女」として第1部の第2主題、ついで第1主題を回想し、ここでひとつの頂点を築く。
以下はコーダと見られ、「栄光の聖母」(ソプラノ独唱)、「マリア崇拝の博士」(テノール独唱)と高揚したところで、4度下降、7度上昇の動機(第1楽章第1主題)が金管によって現れる。管の高域、ハープとチェレスタの分散和音で静まっていくと、「神秘の合唱」がきわめて静かに歌い始められ、次第に高みに登りつめてゆく。頂点に達したところで、第1部の第1主題が金管の別働隊によって完全に姿を現し、オルガン、全管弦楽の壮大な響きに支えられて金管が高らかに第1部第1主題の動機を吹奏して全曲を結ぶ。
[編集] 『ファウスト』とマーラー
第2部でマーラーはゲーテの戯曲『ファウスト』(Faust)の第2部第5幕から最終場面210行あまり(約50行は省略)を歌詞として作曲しているが、この『ファウスト』に題材をとった音楽作品として、ほかにベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』(1846年)、シューマンの『ゲーテのファウストからの情景』(1853年)、リストの『ファウスト交響曲』(1857年)、グノーのオペラ『ファウスト』(1859年)、ブゾーニの『ファウスト博士』(1924年、未完)などがある。
このうち、ゲーテの脚本をドイツ語のままで用いたのはシューマンとリストである。シューマンの作品は、『ファウスト』全体からテキストを抜粋したオラトリオ形式によっており、マーラーの第8交響曲の先駆的作品ということができる。リストの『ファウスト交響曲』では最終楽章で「神秘の合唱」の8行を男声合唱に歌わせており、この部分だけなら、シューマンおよびマーラーと共通する。このゲーテの「神秘の合唱」で、「永遠に女性的なるものがわれらを高みへと引き上げ、昇らせてゆく」という詩は、女性の愛を、天上世界へ導く「浄化」作用として象徴的に歌い上げているという解釈が一般的になされる。
しかし、前述したとおり、マーラーは最終楽章を「エロスの誕生」として構想していた。そこにゲーテの『ファウスト』を採用したことについて、マーラーは1910年6月にアルマに宛てた手紙で「すべての愛は生産であり創造であって、肉体的な生産も精神的な創造も、その源にはエロスの存在がある」と書き、『ファウスト』の最終場面でこのことが象徴的に歌われているとしている。
[編集] 楽器法
楽器や合唱の数をこれ程までに大きくした結果、テクスチュアは特に第一部に於いてかなりの簡素化がみられ、多くの人々に訴える為にリズムはかなり易しめに設定してある。その反面、音量や音色の組み合わせについてはかなりの労作が認められる。
マーラーはもともと作曲専業からのスタートではなかった為、レオシュ・ヤナーチェクと同様「使いたい楽器を使いたいときに使う」方法で作曲に臨んだ為に、出番が極度に減らされたパートも少なくない。このような楽器法は、満遍なく楽器を使うことを是とするアカデミズムからの反発があったことは想像に難くない。オルガンの使用もほとんど単純なコードの効果に徹しており、この点に於いて「大衆的」である。
楽器数の増加に伴うテクスチュアの単純化は、書法の複雑化の限界を探っていた同時代の作曲家に大きなインパクトを与えた。このインパクトを最も真摯に受け止めた作曲家に、意外ではあるがカイホスルー・シャプルジ・ソラブジ、ハヴァーガル・ブライアンがいる。
[編集] 歌詞
I | 第1部 | ||||||
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Hymnus: Veni, creator spiritus | 「来たれ、創造主たる聖霊よ」 | ||||||
Veni, creator spiritus, |
来たれ、創造主たる聖霊よ |
||||||
( )内は歌詞として使われていない
[編集] 参考文献
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