小辺路
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小辺路(こへち)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道・熊野古道のひとつ。
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[編集] 概要
小辺路は、弘法大師によって開かれた密教の聖地・高野山と熊野三山を結んでいる。始点と終点のそれぞれにちなんで、高野熊野街道、(南向きに歩く場合に)熊野道、(北向きに歩く場合に)高野道ないし高野街道と呼ばれることもあるが、歴史的には小辺路の名のほうが古い。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70km)で結ぶが、奥高野から果無山脈にかけて、紀伊山地の背骨にあたる部分を縦走することになり、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである。
高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路は、すぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って、十津川温泉付近で熊野川に出会う。十津川温泉を発つと、果無山脈東端にある果無峠を過ぎて再び和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらく国道168号線を経て三軒茶屋付近で中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。
古人のなかには、この参詣道をわずか2日で踏破したという記録もあるが、現在では2泊3日または3泊4日の行程が勧められている。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている他は、交通至難であることも手伝って、歩く人も少なく、時として観光客でごった返すこともある中辺路などと比べると、静謐な雰囲気が保たれている。ただ、全ルートの踏破には、1000m級の峠3つを越えなければならないほか、一度山道に入ると、長時間にわたって集落と行き合うことがないなどするため、本格的な登山の準備が必要である。また、冬季には積雪が見られるため雪山向けの準備が必要となり、不用意なアプローチは危険である。
基本的に、ほとんどの部分で古来の面影がよく残されている。だが、かつてはこの山域の生活道として利用されてきた道であるだけに、道路整備等によって吸収され、紀伊路や伊勢路ほどではないが古来の面影を失ってしまった部分がある(後述)。特に高野山から大股集落にいたる区間にそれが著しく、過半が自動車道路と林道になっている。
[編集] 歴史
[編集] 前近代
小辺路は、もともと、この山域の住人の生活道として開かれた道があったところを、畿内近国の人々が高野山を経て熊野三山に至る道として利用し始めたことが起源である。
皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路や、修験道の修行場であった大峯奥駈道などと異なり、もっぱら庶民の参詣道として用いられたことから、小辺路の記録は潤沢ではない。
源氏との戦いに敗れた平維盛が、密かに逃亡の道としたとする言い伝えや史跡もあるが、伝承にとどまる。確かな記録として最古のものは、元弘の乱に際して後醍醐天皇の王子護良親王が、鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびたと伝えるものである(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)。また、16世紀には、伊予国の武将・土居清良が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したと伝えられている(『清良記』)。
小辺路の名を確認できる最古の史料は、1628(寛永5)年の笑話集『醒睡笑』である。『醒睡笑』の成立年代を考えるならば、この名は早ければ戦国時代末期には知られていたことが推測できる。なお、小辺路の読み方(こへち)は、この『醒睡笑』が典拠であり、「こへじ」と濁音にするのは誤りである。
参詣道としての利用が文書上で確認できるのは、近世(特に18世紀)以降である。畿内近国からの、また、「かんとうべぇ」「おうしゅうべぇ」などと呼ばれた関東・東北からの参詣者による利用が確かめられている。後者は、伊勢神宮参詣の後、熊野三山を経て高野山に向かうために小辺路を用いた。また、前者については、現在知られている近世の小辺路参詣記のほぼ全てが大阪の町人によるもの(松尾芭蕉の門人、河合曾良による『近畿巡遊日記』を除く)であるという点で特に注目に値する。
[編集] 幕末から近代
幕末期の動乱の中、尊王攘夷派の一党、天誅組が決起(1868年)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して京都に向かうが、情勢の急変により帰村、天誅組も東吉野村で壊滅する。その後、若干の分派が、十津川村をたよって小辺路を敗走する。
1889(明治22)年には、大水害により壊滅的な打撃を受けた十津川村の住人の一部が再建を断念して北海道に入植(のちの新十津川町)。その際、小辺路を経て、神戸より海路をたどった。
明治維新以降の近代に入ってからは、熊野詣の風習も殆どなくなってしまったことから、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として、昭和初期までは使用されつづけた。
[編集] 現代~世界遺産登録と再興
前述のように、生活道路としての性格を持っていた道であるため、小辺路の周辺での道路整備が大正から昭和にかけて進められると、いくつかの区間は国道や林道に吸収されてしまった。以下はその中でも顕著な部分である。
- 大滝集落(高野町)~水ヶ峰(野迫川村) —— 高野龍神スカイライン(国道371号線)
- 水ヶ峰~大股集落(野迫川村) —— 林道タイノ原線(1999年開通)
- 西中大谷~十津川温泉(ともに十津川村) —— 国道425号線
- 八木尾~三軒茶屋(ともに田辺市本宮町) —— 国道168号線
1936(昭和11)年には十津川村川津集落まで道路が開通し(現在の国道168号線)、前後して野迫川村にも道路が開通したことにより、生活道路としての小辺路は役割を終えた。こうした道路整備につれて歩かれなくなった古道は、半ば忘却されていた。
しかし、玉置善春[1979]の先駆的な業績における小辺路の重要性の指摘をさきがけとし、1980年代以降、関心を集めるようになり、熊野記念館(新宮市)[1987]の調査報告、宇江敏勝らによる踏査(1982、2003)および報告[宇江1989][宇江2004b]などが相次いだ。その後、熊野古道の世界遺産登録の動きが活発になり、1999年に南紀熊野体験博が開催されると、それと呼応して再調査と整備が行われた。2004年7月、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
[編集] 小辺路の峠
小辺路の主要な3つの峠とその周囲の名所・古蹟について記述する。
[編集] 伯母子峠
小辺路の最高地点(標高1220m)となるのがこの峠。伯母子岳(1344m)の東側を巻いて、大股と三浦口をつなぐ。
- 上西家跡(うえにしけあと)
- 明治頃まで街道宿を営んでいた上西家の遺構。石垣が残り、眺望が開けている。
[編集] 三浦峠
標高1070m。茶屋跡が残る。林道に横断されており、眺望は開けない。
[編集] 果無峠
標高1070m。小辺路の峠のなかでもおそらく最も著名なのがこの峠である。果無峠は、厳密には奈良県と和歌山県の西南部県境にそびえる果無山脈の稜線東端にある峠を指すが、熊野古道の一部として言及する場合には、果無峠を越えて十津川と本宮町八木尾をつなぐ参詣道の山上部全体を指す(この項では後者)。果無越え(はてなしごえ)とも呼ばれる。
- 果無集落
- 果無峠の十津川側登山口(十津川村蕨尾)からすぐの山上(稜線上)にある集落。
- 三十三観音像
- 本宮町八木尾を起点(第1番)とし、果無峠(第17番)、果無集落(第30番)を経て櫟左古(いちざこ)の第33番まで、山道沿いに配されている観音像群。西国三十三箇所の観音の像を、十津川・本宮の信者たちが大正末期に寄進・造立したもの。
[編集] 参考文献
- 宇江敏勝、1989、『木の国紀聞 : 熊野古道より』新宿書房 ISBN 4880081310 —— 宇江らによる1982年の踏査記を含む。
- 宇江敏勝、1996、『山びとの記 : 木の国 果無山脈』中央公論社(中公新書) ISBN 4121005783
- 宇江敏勝監修、2004a、『熊野古道を歩く』山と渓谷 ISBN 4635600335
- 宇江敏勝、2004b、『世界遺産熊野古道』新宿書房 ISBN 4880083216 —— 宇江らによる2003年の踏査記を含む。
- 熊野記念館資料収集調査委員会自然・歴史部会編、1987、『熊野古道小辺路調査報告書』
- 小山靖憲、2000、『熊野古道』岩波書店(岩波新書) ISBN 4004306655
- 奈良県教育委員会、2002、『熊野古道小辺路調査報告書』奈良県教育委員会
- 高桑信一、2005、『古道巡礼』東京新聞出版局 ISBN 4808308193
- 玉置善春、1979、「埋もれた熊野参詣路 : 近世の「小辺路」の諸相」『くちくまの』42号
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
以下は、小辺路の踏破記を含む個人運営サイト。
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