延岡藩
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延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の一部をも領有した。また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。藩庁は縣城(延岡城)(宮崎県延岡市)。
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[編集] 略史
当藩の始まりは、豊臣秀吉の九州征伐後の天正15年(1587年)に豊前国香春(福岡県田川郡香春町)周辺の領主高橋元種が延岡南部の松尾城5万石に封ぜられたことに始まる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに於いて元種は、当初西軍方であった。しかし、九州南部の小領主である秋月種長・相良頼房らと密謀し東軍へと寝返った。これにより江戸幕府より旧領を安堵され県藩の成立をみた。慶長6年(1601年)元種は県城(延岡城)を築城し松尾城より移った。以後、明治維新までこの城が藩政の中心となった。
元種は慶長18年(1613年)幕府の禁忌に触れたために改易となった。一説には罪人を隠匿したとされる。
慶長19年(1614年)肥前国日野江藩より有馬直純が5万3千石で入封した。2代康純は城下町を整備し、県を延岡と改称した。この有馬氏統治の時代に藩政が整理された。また、寛永18年(1641年)弟の純政に3千石を分知した。3代清純は弟の純息に1,800石、純富に1千石の新田をそれぞれ与えている。清純の時代の元禄3年(1690年)郡代・梶田十郎左衛門の圧政に不満を持った山陰村(やまげむら)・坪谷村の領民約1,500人が家財を持ち武器を携え隣藩の高鍋藩に逃散する山陰・坪谷村一揆が起こった。この百姓一揆は翌年の幕府評定所の裁決により領民の帰参を命じられるまで11ヶ月間に渡って続いた。一揆首謀者の処刑と同時に、元禄4年(1691年)清純は一旦改易され、改めて陣屋大名に格下げの上、越後国糸魚川藩5万石に転封となった。
元禄5年(1692年)譜代大名の三浦明敬が下野国壬生藩より2万3千石で入封した。以後、当藩は最南端の譜代大名藩となった。延岡藩歴代中最少の石高であったが、明敬は山陰・坪谷村一揆の後処理、有馬氏時代より続いていた高鍋藩との境界問題・豊後国との国境紛争の解決に尽力した。延岡藩の石高は表高と実高の差が大きいことが以前より問題視されており、三浦氏によってその問題は解決されたと見る。正徳2年(1712年)明敬は三河国刈谷藩に転封となった。
代わって三河国吉田藩より牧野成央が歴代最高の8万石で入封した。日向国内のみならず豊後国大分郡・国東郡・速見郡を領有した。2代貞通は、奏者番、寺社奉行と累進し寛保2年(1742年)京都所司代となった。その際、日向国内の3万石分を河内・近江・丹波・美濃の領地に移された。貞道の出世で経費が嵩み藩財政は困窮するに至った。延享4年(1747年)三方領知替えにより牧野氏は常陸国笠間藩に転封となり、代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7万石で入封した。なお、磐城平藩には笠間藩より井上政経が入封している。
内藤氏は前領地だった磐城平藩で起った「磐城騒動」の責任を取らされ、懲罰的に延岡に移封された。表の石高が同じ7万石ではあるが、磐城平は実高13万石あり、実質6万石の減封であることからそれが分かる。
内藤氏は最も長く在封し124年間この地を治めた。なお、内藤氏8代は全て養子による相続という珍しい記録を持っている。内藤氏の統治時代は財政難とそれに伴う百姓一揆に悩まされ続けた。歴代藩主は藩政改革に腐心し、特に6代政順は商人の営業特権を強制収奪し専売制を強化した。蝋・和紙・菜種などの生産に力を注いだ。
井伊直弼の実弟である7代政義は彦根藩より養子に入った。学寮を藩校「広業館」と改め拡充に努めた。
8代政挙の時代に幕末・明治維新を迎える。譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採った。薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって苦況に立たされた。
明治4年(1871年)廃藩置県により延岡県となった。のち、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県に編入された。 明治17年(1884年)内藤家は子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 高橋(たかはし)家
外様 50,000石 (1587年~1613年)
- 元種(もとたね)〔従五位下、右近大夫〕
[編集] 有馬(ありま)家
外様 53,000石→50,000石 (1614年~1691年)
- 官位官職は歴代、従五位下・左衛門佐、日向守
[編集] 三浦(みうら)家
譜代 23,000石 (1692年~1712年)
- 明敬(あきひろ)〔従五位下、壱岐守〕
[編集] 牧野(まきの)家
譜代 80,000石 (1712年~1747年)
- 成央(なりなか)〔従五位下、備後守〕
- 貞通(さだみち)〔従四位下、備後守・侍従 京都所司代〕
[編集] 内藤(ないとう)家
譜代 70,000石 (1747年~1871年)
- 政樹(まさき)〔従五位下、備後守〕
- 政陽(まさあき)〔従五位下、能登守〕
- 政脩(まさのぶ)〔従五位下、備後守〕
- 政韶(まさつぐ)〔従五位下、能登守〕
- 政和(まさとも)〔従五位下、備後守〕
- 政順(まさより)〔従五位下、備後守〕
- 政義(まさよし)〔従五位下、能登守〕
- 政挙(まさたか)〔従五位下、備後守〕