日本人選手のメジャーリーグ挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本人選手のメジャーリーグ挑戦(にほんじんせんしゅのメジャーリーグちょうせん)
この項では、日本のアマチュア及びプロ野球選手がメジャーリーグベースボール(MLB)の球団に入団しプレーするまでの経緯に焦点を当てる。
それまでアマチュアもしくはプロ野球で活躍していた日本人選手がメジャーリーグに挑戦することを、「海を越える」「海を渡る」と表現することがある。 近年のプロ野球人気低迷の要因として有力選手のメジャー流出があげられており、プロ野球ファンの中にはメジャーリーグに挑戦する者を批判する声も多い。
なおこの項では、「メジャーリーガーである」ということを、キャンプ・オープン戦への参加やマイナー球団に所属することではなく、メジャーリーグベースボールの公式戦に選手として出場することとして定義する。
【参考:日本人メジャーリーガー一覧】
目次 |
[編集] 日本人選手のメジャーリーグ挑戦の歴史(特記事項のみ)
- 1964年 村上雅則が1Aからスタートし、サンフランシスコ・ジャイアンツへ昇格、日本人初のメジャーリーガーになる。1965年までプレーし、日本に帰国。
- 1978年 小川邦和がマイナーで入団するも、メジャーに昇格できず、退団となった。
- 1984年 江夏豊がミルウォーキー・ブリュワーズの傘下チームとマイナー契約を結び、メジャー挑戦。しかし、メジャーに昇格できずに退団、そのまま引退となった。
- 1995年 野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに入団し、日本人2人目のメジャーリーガーになる。事実上、ここから日本人選手のメジャーリーグ挑戦の道が開ける。
- 1996年 マック鈴木がシアトル・マリナーズでメジャーデビュー(日本人3人目)。日本のプロ野球を経由せずにメジャーリーグ昇格を果たした初の選手となる。
- 1997年 長谷川滋利がアナハイム・エンゼルスと契約、伊良部秀輝がニューヨーク・ヤンキースと契約。
- 1998年 吉井理人がFA権を行使してニューヨーク・メッツに入団。なおFA権を行使してのメジャー入りは日本人として初めて。
- 2000年 佐々木主浩がFA権を行使してシアトル・マリナーズに入団する。
- 2001年 イチローがポスティングシステムでシアトル・マリナーズに入団。日本人野手としては初のメジャーリーガーになる。新庄剛志がFA権を行使してニューヨーク・メッツに入団。
- 2003年 松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースに入団。
- 2004年 松井稼頭央がFA権を行使してニューヨーク・メッツに入団。日本人内野手としては初のメジャー入り。
- 2006年 城島健司がFA権を行使してシアトル・マリナーズに入団。日本人捕手としては初のメジャー入り。
- 2006年オフ 松坂大輔がポスティングシステムにかけられ、争奪戦の末にボストン・レッドソックスが史上最高額となる60億円で落札。
[編集] メジャーリーガーになる方法
[編集] フリーエージェント権の行使
日本のプロ野球でフリーエージェントの権利を取得後、それを行使して移籍するという方法。希望する球団に行ける可能性が高いというメリットがある。ただし現行制度では、日本の球団に最低でも9年間は在籍しなければならず、若い時点で移籍することが難しいという欠点もある。
過去には、吉井理人、佐々木主浩、新庄剛志、田口壮、松井秀喜、松井稼頭央、城島健司らがこの方法で移籍している。
[編集] 自由契約
在籍している日本の球団に、自らを自由契約にするように頼み、解雇してもらう。その後、メジャー球団と交渉するなりメジャーのトライアウトを受けるなりして契約を結ぶという方法。
米球界での評価が高い選手の場合には、希望球団とスムーズに交渉できるという利点もある。ただし、自由契約にする日本の球団側には何の利益もないので、チームの看板選手をこの方法で放出するということは普通はありえない。契約の席で球団幹部と覚書を交わした井口資仁のように、契約上のもつれから自由契約にされるケースは例外的である。
過去には、斎藤隆、大家友和、木田優夫なども、自由契約からメジャー入りを果たしている。
[編集] 入札制度
在籍している日本の球団に、自らをポスティング制度にかけるよう頼むという方法。
球団の利益優先という観点から、選手がFA権を取得する1~2年前にかけられるケースが多い。FA権を行使するケースよりも早くメジャーに行くことができるが、移籍先を選ぶ自由はほとんどない。2006年のWBCで最優秀選手になった松坂大輔のように、米球界での評価が高い選手の場合は完全な自由競争となるため、資金力のある球団に落札される可能性が高くなる。
過去には、イチロー、石井一久、大塚晶則、松坂大輔、井川慶、岩村明憲らがこの制度でメジャー入りしている。
[編集] 野球留学
マイナーリーグへの野球留学に参加し、そこで好成績を残してメジャー出場を狙うという方法。但し、あくまで在籍していた日本の球団がバックについての留学なので、帰国要請があれば日本に強制送還させられる。最近、球界で導入が検討されている「レンタル移籍制度」も、これに近いものと考えられる。
過去には、村上雅則、柏田貴史がこの方法でメジャーリーガーになっている。
[編集] 日本球界を経由しない
ドラフト会議前に日本球界入りを拒否して渡米する場合と、野球が出来る環境を求めて渡米する場合の2通りがある。いずれの場合も実力さえあれば、日本球界を経由する場合よりも早くにメジャーリーグに昇格できるという利点がある。
なお、マック鈴木のように、メジャーリーガーとしての実績がありながら、日本球界に在籍経験がない日本人選手が日本球界に入る時には、新卒、社会人選手などの新人選手と同様にドラフト会議の指名を受けることが義務付けられている。
過去、主に日本で教育を受けながら日本球界を経由せずにメジャーリーガーになった選手は、マック鈴木と多田野数人の2人だけ。
[編集] 日本のドラフト指名を回避
日本のアマチュア時代に注目されれば、メジャーからのオファーが来ることもある。このとき、選手本人が日本球界入りを公然と拒否してメジャー入りを熱望した場合に限り、日本のドラフトを回避して直接メジャー球団と契約を結ぶことができる。
ただし、現在までのところこの方法からメジャーリーガーになった選手は1人もいない。
しかし、西武ライオンズの裏金問題が発覚し日本のドラフト会議で希望入団枠が撤廃されたことを受け、事実上日本の特定の球団に入ることが困難になったため、今後日本のアマチュアの有望選手が日本球界入りを拒否して直接メジャー球団と契約を結ぶケースが増加することが懸念されている。
[編集] 日本のドラフト指名を受けていない
日本のドラフト会議で指名を受けなかった場合でも、野球ができる環境を求めて渡米してメジャーのトライアウトを受けるなどしてマイナー契約を結び、その後メジャーリーグ昇格を狙うという方法がある。
高校中退後単身渡米してのちにメジャー入りを果たしたマック鈴木と、有望選手でありながらドラフト指名を見送られた多田野数人は、いずれも日本球界からの指名を受けておらず野球が出来る環境を求めて渡米した選手である。
[編集] その他
野茂英雄は、日本球団を任意引退という形で退団してメジャーリーグに挑戦している。
伊良部秀輝は、独占交渉権を譲渡された後、代理人を雇って大型トレードを仕掛けるという方法で希望通りヤンキース入団を果たしている。
[編集] 主な日本人メジャーリーガーの入団経緯
[編集] 村上雅則
南海ホークスへの入団に際し、球団は村上にアメリカへの野球留学を約束。1964年、村上ら3選手はサンフランシスコ・ジャイアンツの傘下1Aフレスノへ野球留学。同年の8月31日、フレスノで大活躍をしていた村上は、2A、3Aを飛び越えてのメジャー昇格を突如言い渡され、日本人として初のメジャーリーガーとなった(人種問題に揺れるアメリカの政治宣伝だったとする説もある)。
[編集] 野茂英雄
1994年オフ、野茂は近鉄球団に対して「複数年契約」と「代理人制度」を希望するが、球団はこれを認めず交渉は決裂。近鉄退団とメジャーリーグ挑戦を決意する。マスコミのバッシングを受ける中で、任意引退して渡米。ロサンゼルス・ドジャースと年俸10万ドルでマイナー契約を結んだ。その後メジャー昇格を果たす。
[編集] 伊良部秀輝
1996年オフ、メジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキースへの移籍を熱望。ロッテはサンディエゴ・パドレスに独占交渉権を譲渡するが、伊良部は日本球界でまだ認められていなかった代理人を雇って対抗する。1997年5月に伊良部の意向が認められ、パドレスとの2対3のトレードという形でヤンキース入りを果たす。この一件により、伊良部は多くのメディアに否定的な報道をされた。
[編集] イチロー
1999年オフ、メジャーリーグの球団への移籍をオリックス球団に要望するが、受け入れられず。2000年オフ、日本人選手で初めてポスティング制度(入札制度)を使い、シアトル・マリナーズが落札。日本人野手として初のメジャーリーガーが誕生するとともに、メジャーリーグ移籍の手段としてのポスティング制度が注目された。
[編集] 多田野数人
立教大学ではエースとして活躍しており、2002年のドラフト会議でも自由獲得枠での指名が確実と言われていたが、肩の故障やドラフト直前にゲイビデオに出演していたことが発覚。結局、この年のドラフトではどの球団からも指名を受けなかった。野球ができる環境を求めて単身渡米。インディアンスのトライアウトを受けて合格し、マイナーリーグから這い上がり2004年4月にメジャー昇格を果たした。
[編集] メジャー希望選手
現在日本球界に在籍している選手の中では、上原浩治、石井弘寿、福留孝介、川上憲伸、清水直行、和田毅、新垣渚らがメジャー志向が強いといわれる。
最近の選手の動きについては以下のとおり。
[編集] 上原浩治
2004年オフ、ポスティング制度を使ってのメジャーリーグ移籍を熱望。巨人はこれを認めず、FA権取得までの残留を要請。これに対して上原は、ポスティング制度を認める日本の他球団へのトレードを要求(却下)。その後、上原が折れる形で、FA権取得まで巨人に残留することを明言した。
[編集] 石井弘寿
2005年、ヤクルト球団はポスティング制度を使ってのメジャーリーグ移籍を一時は容認する姿勢を見せていたが、オフになると球団は一転してこれを認めず、ポスティング移籍を望む石井と越年交渉の末、残留が決まった。チームメイトで同じくメジャー移籍を志望していた岩村明憲とともに、「今年(2006年)活躍すれば」という条件でフロントが移籍を容認し、オフの移籍は確実と思われていた。しかし左肩の手術で思うような成績を残せなかったために先送りとなり、2007年以降もヤクルトに残留することが確定した。同僚の五十嵐亮太とともに、手術の影響で2007年中は復帰できない見込みであり、今後の展開が注目される。(岩村はポスティングによるメジャー移籍が決定)
[編集] 松坂大輔
2004年オフにポスティング制度を使ってのメジャーリーグ移籍を希望したが、FA権取得までの残留を 要請。球団側は「来年、周囲が認める成績を出したら意思を尊重する」とした。 2005年オフに再びポスティングシステムを使ってのメジャーリーグ移籍を希望したが、球団側は認めず、残留した。松坂は「まだ諦めたわけではない」と語った。 2006年オフも前年に引き続いてメジャー移籍を希望し、球団側はこれを容認。その後、約60億円でボストン・レッドソックスが交渉権を獲得したが、球団側とボラス氏が提示した年俸の差額が大きいことから交渉が難航し、期限の当日まで交渉が続けられ、6年契約の約60億円+出来高で12月14日(現地 日本時間12月15日午前7時ごろ)に入団会見を開き、レッドソックスとの契約が正式に行われ、入団が決定した。
[編集] 井川慶
2004年と2005年のオフに、ポスティング制度を使ってのメジャーリーグ移籍を阪神に要求し認められなかったが、2006年オフにポスティングによるメジャー移籍を阪神が容認した。ニューヨーク・ヤンキースが約30億円で落札した。交渉代理人は松井秀喜と同じアーン・テレム。
[編集] 桑田真澄
2006年オフ、読売ジャイアンツを退団する意向を表明した桑田真澄がメジャーへの挑戦を表明し、12月18日、ピッツバーグ・パイレーツへの入団を表明。正式契約はしていないもののマイナーからのメジャー昇格を目指すのでものと見られている。また会見ではパイレーツのほかにレッドソックスとドジャースからのオファーがあったことも明かした。
[編集] その他
- 1984年のオフに山本和行(阪神タイガース)がメジャーへの移籍希望を表明した。しかし、当時はFA制度もポスティングシステムもなかったため、移籍に関連する様々な問題をクリアできず、最終的には渡米を断念した。山本は事前にロサンゼルス・ドジャースとの間でさまざまな交渉を行っており、あとは契約と保有権の手続きを済ませれば移籍が実現するところまで漕ぎ着けていたとも言われている。
- 1993年オフ、アナハイム・エンゼルスが大野豊(広島東洋カープ)を獲得したいと、球団に正式に申し入れたことがある。しかし本人は、38歳(当時)という野球選手として高齢であることを理由にこれを固辞。メジャー球団から日本人選手への公式オファーは、これが史上初のことであった。
- 1997年オフ、FA権を取得した野村謙二郎(広島東洋カープ)に対し、タンパベイ・デビルレイズが獲得に名乗りを挙げた。しかし周囲の説得などもあり、野村は最終的にFA宣言をせず広島に残留した。
- 2000年オフに、阪神を自由契約となった佐々木誠がメジャーのトライアウトを受け、数球団から合格通知を得たもののビザの問題で移籍は実現しなかった。その後佐々木は、独立リーグのソノマ・カウンティクラッシャーズで1年間プレーした。