野茂英雄
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[[Image:||野茂英雄]] |
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愛称 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市港区 |
出身校 | 成城工業高校 |
誕生日 | 1968年8月31日 |
身長 | 188 cm |
体重 | 104 kg |
血液型 | B型 |
守備位置 | 投手 |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
背番号 | |
年俸 | |
デビュー年 | 1990年4月10日 |
キャリア | 1990年- |
所属球団 | |
前所属球団 | シカゴ・ホワイトソックス |
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野茂 英雄(のも ひでお 1968年8月31日 - )は大阪府大阪市港区出身のプロ野球選手。右投右打、投手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
大阪府立成城工業高~新日鉄堺~1989年近鉄バファローズドラフト1位。渡米後-ロサンゼルス・ドジャース~ニューヨーク・メッツ~シカゴ・カブス~ミルウォーキー・ブルワーズ~デトロイト・タイガース~ボストン・レッドソックス~ロサンゼルス・ドジャース~タンパベイ・デビルレイズ~ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約)~シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約)
大きく振りかぶってから背中を打者に向ける「トルネード投法」と呼ばれる独特の投法から繰り出される、キレのあるストレートと2種類のフォークボールが特徴で、どの球もほぼ同じフォームで投げられることも武器である。
[編集] プロ入り以前
小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であり、名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格、甲子園とは縁の無い公立高校に進むことになった。成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。この時期すでに「トルネード投法」で投げていた。高校卒業時、この時すでに近鉄から誘いがあったが野茂は断り、ノンプロ・新日鉄堺への入社を選ぶ。新日鉄堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得、これがその後の野球人生を切り開いてゆくこととなる。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。名実共にアマNo.1投手となった野茂はその進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。
[編集] 日本プロ野球時代
1989年のドラフトで、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。契約金は史上初の1億円台(1億2千万円)、年俸1千万円という破格のルーキーであった。なお野茂を指名した球団のはずれ1位は、阪神は葛西稔、ロッテは小宮山悟、ヤクルトは西村龍次、大洋は佐々木主浩、ダイエーは元木大介(後に元木は指名を拒否して翌年巨人に入団)、日本ハムは酒井光次郎、オリックスは佐藤和弘である。野茂を指名しなかった4球団は、巨人が大森剛、広島が佐々岡真司、中日が与田剛、西武が潮崎哲也を指名しており、のちのプロ野球界を支える一線級の投手が揃った大豊作の年であった。
プロ初登板は1990年4月10日の藤井寺球場での西武戦。初勝利はプロ4試合目の登板となる1990年4月29日の対オリックス戦(西宮)。この試合、完投で17奪三振の一試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。結局この年は最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と主要四冠を独占。さらにベストナイン、新人王、沢村賞、そしてMVPに選ばれ、プロ野球界に「旋風」を巻き起こした。なお、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博、堀内恒夫、上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである。
1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」を目指したトレーニングも功を奏した。翌1994年は右肩痛のため目立った活躍が出来なかったが、西武との開幕戦では8回までノーヒットノーランに抑える素晴らしい投球。味方打線も8回まで無得点だったが、9回表に石井浩郎が3ランホームランを放ち大記録達成を予感させた。しかし9回裏に先頭打者の清原和博にツーベースを打たれ史上初の開幕戦での大記録は途切れたが、後に大リーグでこの夢は現実のものとなる。
なお、清原のツーベースの後フォアボールとセカンドゴロエラーで1死満塁としてしまい、ここで鈴木啓示監督はピッチャーを野茂から赤堀元之に交代してしまう(結果、西武の伊東勤が野茂の後を継いだ赤堀から史上初の開幕戦サヨナラ満塁ホームランを放つ)。鈴木監督が開幕前日「エースの野茂と心中する」と言っていたにもかかわらず降板させたことに関して「なぜ降板させたのか」という世間の批判が噴出し、同時に鈴木の監督としての手腕・人間性が疑問視されることとなった。
[編集] メジャーリーグ時代
1994年に複数年契約と代理人制度を希望したが、拒否されたため近鉄を退団してわずか年俸980万円でメジャーリーグに挑戦する。なお、野茂の退団は自由契約ではなく任意引退扱いなので野茂が日本プロ野球界に帰った場合、近鉄は野茂に対して保有権を持つことになった(2005年以降は近鉄と合併したオリックスが保有権を所有しているが、本人はこの過程を嫌っている様子)。1995年にはメジャーリーグ挑戦に成功し村上雅則以来2人目のメジャーリーガーとなり、日本人メジャーリーガーの先鞭をつけ、パイオニアとしての功績をたたえられている。
大リーグではノーヒット・ノーランを達成するなど、強い印象を残した。これは日米双方に大きな衝撃となった。米国では「大リーグはダントツの世界一だ」という自惚れが強かったのだが、その鼻がへし折られるという衝撃があった。日本では「とうてい大リーグには敵わない」というコンプレックスがあったのだが、そのコンプレックス(ボブ・ホーナー以来のコンプレックス)がくつがえされるという衝撃があった。
野茂はドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。これはチームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすりかえられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある南北戦争の英雄リー将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ大芝居なのだが)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていることに心を痛め、野球を志す若者に対し少しでも受け皿になれればと、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任。2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟、翌2005年には結成2年目にして都市対抗野球に初出場、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。
またアメリカの独立リーグ・ノース・イーストリーグのエルマイラを元近鉄の佐野重樹らと運営している。メジャー生活の大半を過ごしたドジャースから勝ち星を挙げれば、「メジャー全30球団から勝利」の記録を達成することになる(メジャーリーグ史上2人目)。
[編集] 略歴
- 身長・体重:188cm 104kg
- 投打:右投右打
- 出身地:大阪府大阪市港区
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:成城工高 - 新日鐵堺 - 近鉄(1990年 - 1994年)- ドジャース(1995年 - 1998年途中)- メッツ(1998年)- ブルワーズ(1999年) - タイガース(2000年) - Rソックス(2001年) - ドジャース(2002年 - 2004年) - デビルレイズ(2005年) - Wソックス(2006年途中) - 野球浪人
- プロ入り年度・ドラフト順位:1989年(1位)
- FA取得・行使:日本では無し
- 英語表記:NOMO
- 守備位置:投手
[編集] 経歴
- 1988年 - ソウルオリンピックの野球日本代表として銀メダル獲得に貢献。
- 1989年 - 8球団競合の末、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。
- 1990年 - 最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率を獲得し、投手四冠となる。またベストナイン、新人王、沢村賞(パリーグの選手としては初)、最優秀選手も同時に獲得。
- 1994年 - 鈴木啓示監督との確執からメジャーリーグ移籍を願望。フロントの制止を振り切り海を渡ることを決意。
- 1995年 - ロサンゼルス・ドジャースに入団し、オールスターに日本人として初出場すると同時に、日本人初のオールスター先発投手となった。同年、13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得。なお日米両国で新人王を受賞したのは現在も野茂ただ1人である。(2005年現在メジャーリーグに在籍中の日本人選手の中で、日本で新人王を獲得したのは野茂の他、長谷川滋利(シアトル・マリナーズ)と藪恵壹(オークランド・アスレチックス)の3人。佐々木主浩(シアトル・マリナーズ)、イチロー(シアトル・マリナーズ)は日本で受賞しておらず、松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)は日米共に受賞を逃している。)
- 1996年 - 9月17日にコロラド州クアーズ・フィールドで行われた対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。雨、寒さ、優勝争い、高地であることによる打球飛距離2割増し、強力打線相手、開始2時間遅れという六重苦の中での快挙だった。
- 1998年 - 4月28日、日本人メジャー1号本塁打を記録。シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレード。
- 1999年 - 開幕直前にメッツから解雇通告を受けて、開幕後にミルウォーキー・ブルワーズにトレード。
- 2000年 - デトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利を収めるが、シーズン途中にアクシデントに見舞われ8勝12敗。
- 2001年 - ボストン・レッドソックスにトレード。4月4日の対オリオールズ戦で96年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。息を吹き返した。
- 2002年 - ロサンゼルス・ドジャースに復帰。
- 2004年 - 11月はじめ、フリーエージェントを申請。
- 2005年 - 1月、タンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦で7回2失点と好投し、日米通算200勝を達成するも7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。3Aコロンバス・クリッパーズでメジャー昇格を目指し先発登板を重ねたが、このシーズン中の昇格はなかった。
- 2006年 - 3月3日、シカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約を結んだ。ヤンキース退団後は、日本での保有権を継承しているオリックスへの入団交渉も行われていたと報道された。3Aシャーロット・ナイツの開幕戦およびその後の数試合での先発予定をひじ痛を原因として回避し、4月17日に先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録されている。6月8日、契約を解除される。
- 2006年 - ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討している。
[編集] 年度別成績
年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 投球回 | 四死球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | 近鉄 | 11 | 29 | 18 | 8 | 0 | 235.0 | 113 | 287 | 87 | 76 | 2.91 | ||||
1991 | 近鉄 | 11 | 31 | 17 | 11 | 1 | 242.1 | 133 | 287 | 92 | 82 | 3.05 | ||||
1992 | 近鉄 | 11 | 30 | 18 | 8 | 0 | 216.2 | 118 | 228 | 73 | 64 | 2.66 | ||||
1993 | 近鉄 | 11 | 32 | 17 | 12 | 0 | 243.1 | 155 | 276 | 106 | 100 | 3.70 | ||||
1994 | 近鉄 | 11 | 17 | 8 | 7 | 0 | 114.0 | 88 | 126 | 55 | 46 | 3.63 | ||||
NPB通算 5年 | 139 | 78 | 46 | 1 | 1,051.1 | 607 | 1,204 | 413 | 368 | 3.15 | ||||||
1995 | LA | 16 | 28 | 13 | 6 | 0 | 191.1 | 83 | 236 | 63 | 54 | 2.54 | ||||
1996 | LA | 16 | 33 | 16 | 11 | 0 | 228.1 | 87 | 234 | 93 | 81 | 3.19 | ||||
1997 | LA | 16 | 33 | 14 | 12 | 0 | 207.1 | 101 | 233 | 104 | 98 | 4.25 | ||||
1998 | LA | 16 | 12 | 2 | 7 | 0 | 67.2 | 41 | 73 | 39 | 38 | 5.05 | ||||
NYM | 16 | 17 | 4 | 5 | 0 | 89.2 | 57 | 94 | 49 | 48 | 4.82 | |||||
1999 | MIL | 11 | 28 | 12 | 8 | 0 | 176.1 | 81 | 161 | 96 | 89 | 4.54 | ||||
2000 | DET | 23 | 32 | 8 | 12 | 0 | 190.0 | 92 | 181 | 102 | 100 | 4.74 | ||||
2001 | BOS | 11 | 33 | 13 | 10 | 0 | 198.0 | 99 | 220 | 105 | 99 | 4.50 | ||||
2002 | LA | 10 | 34 | 16 | 6 | 0 | 220.1 | 103 | 193 | 92 | 83 | 3.39 | ||||
2003 | LA | 10 | 33 | 16 | 13 | 0 | 218.1 | 99 | 177 | 82 | 75 | 3.09 | ||||
2004 | LA | 10 | 18 | 4 | 11 | 0 | 84.0 | 46 | 54 | 77 | 77 | 8.25 | ||||
2005 | TB | 11 | 19 | 5 | 8 | 0 | 100.2 | 53 | 59 | 82 | 81 | 7.24 | ||||
MLB通算 11年 | 320 | 123 | 109 | 0 | 1,972.0 | 942 | 1,915 | 984 | 923 | 4.21 | ||||||
日米通算 16年 | 459 | 201 | 155 | 1 | 3,023.1 | 1,549 | 3,119 | 1,397 | 1,291 | 3.84 |
※ 2005年7月16日現在 太字はリーグ1位
[編集] 獲得タイトル・記録
[編集] 日本プロ野球
- 最多勝利4回 :1990年 (18)、1991年 (17)、1992年 (18)、1993年 (17)
- 最高勝率1回 :1990年 (.692)
- 最優秀防御率1回 :1990年 (2.91)
- 最多奪三振4回 :1990年 (287)、1991年 (287)、1992年 (228)、1993年 (276)
- 新人王 :1990年
- ベストナイン1回 :1990年
- 沢村賞1回 :1990年
- MVP1回 :1990年
- 1試合17奪三振 達成当時プロ野球タイ記録:1990年4月29日
- 1試合個人最多与四球16 プロ野球新記録 :1994年
- シーズン奪三振率10.99 プロ野球新記録 :1990年、達成当時
- 6試合連続2桁奪三振 プロ野球新記録 :1991年4月7日~5月9日
- プロ野球史上最速で通算1000奪三振達成
- オールスター出場4回 :1990年、1991年、1992年、1993年
[編集] MLB
- 最多奪三振2回 :1995年 (236)、2001年 (220)
- 新人王 :1995年
- ノーヒット・ノーラン2回 :1996年、2001年
[編集] エピソード
[編集] 野球に関して
- 脅威の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。高校野球などで高い奪三振率を記録するピッチャーは「○○(地方名)のドクターK」と呼ばれる事もある。
- 高校2年生で達成した完全試合の投球内容は内野ゴロ13、内野フライ2、外野フライ2、三振10、104球。意外にも「打たせてとる」投球だった。
- 名門野球部に進んでいたら、今の野茂はなかったと言われる。(トルネード投法を止めさせられた可能性があるため)
- 「トルネード投法」は近鉄入団後にファンからの公募によりついたネーミングである。(詳しくはトルネード投法の項参照)
- プロ初奪三振は初登板・初先発の1990年4月10日対西武戦(藤井寺)。1回表、4番・清原和博から。この打席、1番・辻発彦が四球、2番・平野謙のバント処理を誤り1・2塁、3番・秋山幸二も四球で無死満塁の大ピンチだった。
- 1991年のオールスターゲームで、全パの秋山幸二が自打球により負傷退場し、他に野手が残っていなかったため、代打で出場したことがある。結果は見逃し三振だった。ただし、すでに秋山が2ストライクを取られていたために記録上は秋山の三振である。
- 1994年の西武戦で個人1試合16与四球の日本新記録を樹立するも3失点完投勝利を挙げている。なおこの試合の投球数は189球で野茂のスタミナとエースとしての信頼を物語っている(普通なら途中で降板している)。しかし、開幕戦に降板させて批判を浴びた鈴木監督が代えるに代えられなかっただけという意見もある。
- 近鉄時代に、野茂は同期入団の石井浩郎以外の野手とは基本的に仲が良くなかったと言われる。これは、野茂の場合フォームが通常とは違うため守備側もタイミングが取りづらいこと、コントロールが悪く球数が多いために守っている時間が長く、四球を連発する野茂に野手が反感を持っていたためだとされる。
- 古巣近鉄がヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズ第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者をうならせた。また、実況に「野茂さんから見てローズ選手や中村紀洋選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいたときはブライアントや石井さん、鈴木さん、金村さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。なお近鉄は前日までに1勝3敗でヤクルトに王手をかけられており、この試合も敗れて悲願の日本一はならなかった。
- メジャーリーグで最初のノーヒットノーラン(ロッキーズ戦)では試合前の雨のせいでマウンドがぬかるんだため、試合の途中からランナーがいなくてもセットポディションで投げ、これが制球につながった。
- ゲイリー・シェフィールドに対して、メジャーデビューしてから天敵といっていいほど相性が非常に悪く、苦手としている。
- 日米通算200勝を達成して名球会入りの権利を得たが、「今は返事をする必要がないと思う」として意思表明を保留しており、正式入会には至っていない。
[編集] 近鉄退団に関して
- ドラフト後、野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げた。仰木彬監督はあっさり了承し、調整方法も野茂に任せることにした。これにより野茂は仰木監督を信頼するようになった。反面、仰木の後任の鈴木啓示監督はフォームや調整法(野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求。野茂は遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求)など様々なことに関して一方的に野茂に干渉してきたため、野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団の大きな要因になった。
- 野茂は仰木監督時代からフロントには様々な不満があったことを語っている。(以下、その事例)
- 野茂が先発する日に自分で車を運転して藤井寺球場に行き、駐車場に車を止めた。すると球団関係者が近付いて来て、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求された。
- 契約更改の席で、フロントから「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。(観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため。近鉄のケチさがわかる話である)
- 最多勝を獲得したのに年俸が上がらなかった。
- 野茂はメジャー入団後に、近鉄との確執に関連して「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。
- 野茂を始め、立花トレーニングコーチは近鉄投手陣から絶大な信頼を受けていた。しかし近鉄フロントは一方的に立花コーチを解雇したため、近鉄投手陣はフロントに反感を持った。(これに怒った一人が吉井理人で、トレードに出される要因になったとされる)
- 1994年オフ、野茂は複数年契約と代理人制度を近鉄に要求。しかし、近鉄側は、野茂が肩を故障してシーズン後半に登板できなかったのを理由に拒否。これが最大の要因となって、野茂は渡米する決意をした。
- 近鉄を任意引退したために、日本プロ野球に復帰する場合に保有権が問題となり、野茂本人もこれが理由の一つで日本プロ野球に復帰する意思がないようである。しかし、これに関しては近鉄側も当時メジャーで活躍するとは思っていなかったため、メジャーで失敗して帰ってきてどの球団も獲らないような事態になっては野茂が困るだろうと配慮した結果であるらしい。
[編集] プライベート
- マスコミに対する態度やインタビュー、鈴木監督との確執、大リーグ移籍騒動というイメージから無口で無愛想に見られがちだが、実は明るくよく喋る性格である。その性格は、友人である木田優夫を通じて出演する明石家さんまの番組でも知ることができる。また、「さんまのまんま」出演時、野球教室にさんまがノーギャラで駆けつけることを約束したが、未だに果たせていないことを木田を通じて何度もさんまにアプローチしている。佐野重樹、吉井理人、赤堀元之、金村義明等近鉄時代のチームメイトとは今も交流が続いており、チャリティなど野茂が主催する会合には電話1本、ノーギャラで駆けつける間柄である。
- アマチュア時代には潮崎哲也とかなり仲がよかった。ソウル五輪に出場した際には、選手村でどこで何をするのも2人一緒だったので、チームメイトだった古田敦也などから冗談半分で「怪しい関係?」と噂されたこともあった。
- 石橋貴明との友情も有名で、野茂が作詞した「nothing around」はとんねるずのアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』に収録されている。またとんねるずがメインを務めた人気テレビ番組とんねるずのみなさんのおかげです内の人気コーナー「モジモジ君」にもゲストとして出演したことがある。(コーナー内の役名は「モジ茂」。コーナーの主旨どおり全身タイツ姿で登場している)
- 大食いでも有名。好物は寿司。新人時代、当時解説者だった佐々木恭介(佐々木は近鉄のOBで野茂の大先輩にあたる)に連れられて高級すし屋に行き、一人で寿司100カンを食べて佐々木氏を仰天させたことがある。また新人王を獲得した1990年、当時の仰木彬監督とすし屋に行った際には、トロとウニを際限なく注文したという話も残っている。
- 近鉄時代の同僚・金村義明が「野茂の趣味はファミコン」と言っていた。また競馬も趣味の一つであるため、ダービースタリオンが大好きで、徹夜で馬を育てて妻に怒られたこともある。なお彼に競馬を教えたのは吉井理人で、野茂はその見返りにフォークを教えたという。
- セガサターンのゲームソフト『プロ野球チームもつくろう!』の監修も手がけている。
- 日本野球時代に選手たちとハワイへ旅行に行くたび、体格が大きいので警備に止められる。「僕は投手です」と答えると、「では投げる真似をしてみろ」と言われ、トルネード投法を披露すると、「お前、嘘だろ!」と言われたことが何度かあるそうだ。
[編集] 社会現象
- 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌『野茂英雄のテーマ HIDE~O』(『バナナ・ボート』の替え歌)をシングルCDで発売。当時、「野茂が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
- 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。