日航機墜落事故
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日航機墜落事故(にっこうきついらくじこ)は、日本航空インターナショナル(旧・日本航空)の航空機墜落事故及び死亡、全損事故の一覧である。文中では、社名は事故当時の「日本航空」と表記する。
日本航空に吸収合併された日本エアシステムが起こした航空事故については次の項目を参照されたい。→旧日本エアシステム系墜落事故
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[編集] 1950年代
[編集] 日本航空「もく星」号墜落事故
1952年(昭和27)4月9日に発生。日本航空の「もく星」号マーチン2-0-2型機 (N93043)が、伊豆大島の三原山御神火茶屋付近に墜落(搭乗員37名全員死亡)。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→もく星号墜落事故
[編集] 日本航空「雲仙」号不時着事故
1957年(昭和32)9月30日に発生。日本航空「雲仙」号(機体記号:JA6011)ダグラスDC-4 伊丹空港を離陸後間もなくエンジン4発のうち3発が不調となり、空港から南約1Kmの豊中市勝部付近の耕作地に不時着して炎上。乗客51名、乗員4名のうち重軽傷者7名を出した。この事故では客室乗務員の迅速な避難誘導が賞賛された。
[編集] 1960年代
[編集] 日本航空壱岐空港墜落事故
1965年(昭和40)2月27日に発生。日本航空のコンベア880-22M (JA8023、KAEDE)が、長崎県壱岐空港(当時建設中)で訓練中、滑走路に接触し墜落炎上(乗員6名中2名重傷)。
[編集] 日本航空羽田空港墜落事故
1966年(昭和41)8月26日に発生。日本航空のコンベア880-22M (JA8030、銀座号)が、羽田空港で訓練中、離陸直後に墜落炎上(乗員4名および運輸省航空局職員1名、全員死亡)。
- 本機は日本国内航空(JDA 後の東亜国内航空→日本エアシステム、現・日本航空インターナショナル)の保有機「銀座号」で、同年に同社保有のボーイング727型2機とともに日本航空にリースされていた。事故当時、塗装は日本国内航空のままだった。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空羽田空港墜落事故
[編集] 日本航空モーゼスレイク墜落事故
1969年(昭和44)6月24日に発生。日本航空のコンベア880-22M (JA8028、KIKYO)が、アメリカのモーゼスレイクで訓練中、離陸直後に墜落炎上(搭乗員5名中3名死亡)。
[編集] 1970年代
[編集] 日本航空ニューデリー墜落事故
1972年(昭和47)6月14日に発生。日本航空471便DC-8-53型 (JA8012)が、ニューデリーのパラム空港への着陸進入中に空港手前のジャムナ河畔に墜落(搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡)。
ニューデリー空港の着陸誘導装置の不調と操縦士が計器(高度)確認を怠ったことが原因と言われているが、機長以下乗員が前夜宿泊していたバンコクのホテルで遅くまで飲酒しながら徹夜で麻雀していたとの目撃証言があり、これが事故の遠因となったとの指摘もある。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空ニューデリー墜落事故
[編集] 日本航空ボンベイ空港誤認着陸事故
1972年(昭和47)(9月24日に発生。日本航空412便DC-8-53型 (JA8013)が,ボンベイ(現ムンバイ)のサンタクルズ国際空港へ着陸進入の際、誤って手前約3.7kmにある小型機専用のジュフ空港に着陸し、滑走路を逸走して大破した。乗員2名と乗客9名の計11名が負傷した。
朝靄で滑走路を見失った上に、着陸誘導装置を使用せずに目視で着陸したのが原因とされるが、隣接する場所に小型機空港を設置したままにしているインド当局にも非難の声が上がった。実際、日本航空機が誤認着陸事故を起こしたわずか4ヵ月後に、東ドイツのインターフルク航空のIl-18型機も誤認着陸事故を起こしている他、1952年には英国海外航空のデハビランドDH106 コメットも誤認着陸事故を起こしていた。
[編集] 日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故
1972年(昭和47)11月28日に発生。日本航空446便DC-8-62型 (JA8040)が、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港を離陸直後に失速し墜落(搭乗員76名中62名が死亡)。
- 当局によるコックピットボイスレコーダーの解析、また目撃者が一様に「離陸直後にエンジンから出火して墜落」との証言していることから、離陸中にスポイラーを展開させたのが失速原因と見られたが特定はされず。
- コックピットボイスレコーダーの解析によると離陸の際、機長が「はいよ」と言ったり「やっこらさ」と言いながら機体を引き上げていることが判明。その直後、副操縦士が「すみません」と謝る声が録音されていたため、日航は事故責任を機体や天候のせいにすることはできず、自社パイロットの職務怠慢が事故原因だと発表した。
- 離陸滑走の際、機内の荷物入れから物がたくさん落ちるほど、機体が異常な揺れ方をしているのを生存者が証言している。おそらく離陸前に副操縦士が「うまく入らない」と言いながらいじっていたスポイラーのレバーを戻すことを忘れたか、副操縦士が、ギアレバー(車輪を上げ下げするバー)とスポイラーのレバーを間違えたかにより、本来は着陸の際に使用するスポイラーが展開した状態で強引に離陸しようとしたため、異常な揺れが生じ、減速するためのスポイラーと離陸するため最大に引き上げられたエンジンの出力という、相反する状態にエンジンがついて行けず出火。離陸直後に推力を失って失速し墜落したのではないかと推測されている。
- なおソ連当局の報告書ではスポイラーと併記して、翼への着氷による揚力の大幅低下も原因として挙げられている(電熱のスイッチがOFFになっていたことが残骸調査で分かっている)。
- 同機(JA8040)は、「よど号」事件の乗客が韓国から帰国する際のフライトに使用(当時は「ひだ」の愛称)、また墜落事故の3週間前には、国内便ハイジャック事件の犯人がキューバへの逃亡を要求し(未遂のまま羽田で逮捕)、その逃亡用機に準備されたり、と大事件とあまりにも縁が深く、最後は墜落という悲惨な結末に。これほど事件や事故と縁深かった機もなかったのでは、という事を象徴するかの様な出来事であった。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故
[編集] 日本航空アンカレッジ墜落事故
1977年(昭和52)1月13日に発生。日本航空1054便DC-8-62AF (JA8054) (貨物便)が、アメリカのアンカレッジ空港を離陸直後に墜落炎上(乗員5名全員死亡)。
- 貨物の牛が離陸時に移動したため機体がバランスを崩したのが原因といわれているが、墜落後機長の遺体からアルコールが検知されたため、飲酒による判断力の低下が原因との説もある。
[編集] 日本航空クアラルンプール墜落事故
1977年(昭和52)9月27日に発生。日本航空715便DC-8-62型 (JA8051)が、悪天候の中クアラルンプール国際空港(旧・スバン空港)に着陸進入中(搭乗員78名中34名死亡)。
- 悪天候により航路を見失ったことが原因とされる。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空クアラルンプール墜落事故
[編集] 1980年代
[編集] 日本航空羽田空港沖墜落事故
1982年(昭和57)2月9日に発生。日本航空350便DC-8-61型 (JA8061) 福岡空港発 東京国際空港行が東京国際空港への着陸進入中に突然失速して滑走路沖の東京湾に墜落(搭乗員174名中乗客24名が死亡)。
- 機長が着陸直前逆噴射をするなどの異常操作による。ボイスレコーダには副操縦士の「キャプテン! やめてください!」という声が残っていた。警察は業務上過失致死罪の容疑で機長を逮捕したが、機長は精神鑑定により妄想性統合失調症と診断されて検察により不起訴処分となった。
- 事故を起こした機長は、数度の異常な言動や操縦を行っていたが放置されていた。事故の前日にも飛行中の機体を意味もなく急旋回させていた。このときは、副操縦士(事故時の副操縦士と同一人物)の回避操作により事故にはならなかった。その際、機長は副操縦士に対して「お見事」と言ったという。この件について副操縦士は会社に対して報告を行っていなかった。その理由として、“日本航空の会社としての体質”、“日本航空において機長は管理職であり副操縦士は評価をされる側であり言いにくかった”等が考えられている。
- 前述のクアラルンプールの事故でも墜落前に副操縦士が高度が下がりすぎているのを気づいていたと見られている。しかし、副操縦士は機長に助言せず機体は滑走路手前に墜落した。管理職である機長の機嫌を損ねたくなかったためと推測されている。機長と副操縦士との人間関係(労使関係)が重大事故の原因になるような状況が一過性のものではなかったことをうかがわせる。
- 事故後「逆噴射」「キャプテン! やめてください!」といった言葉が流行語になった(例:逆噴射家族)。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空350便墜落事故
[編集] 日本航空上海空港オーバーラン事故
1982年(昭和57年)9月17日に発生。上海から成田に向かっていた日本航空のDC-8-61(JA8048、旧愛称ひだか)が、離陸直後に主翼にとりつけられていた部品が爆発し油圧系統に損傷を受けたため、離陸したばかりの上海虹橋空港へ3200m滑走路を南側から緊急着陸した。だが、油圧系統故障のためにフラップが充分だせなかったため、オーバーランし空港脇の土手に機体を激突させ中破した。この事故で乗員乗客124名のうち18名が重傷、29名が軽傷を負った。なお、事故機は日本航空のDC-8の事故抹消7番目かつ最後の機体となった。この年の日本航空にとって4件目の重大事故であり、社会的批判を受けた。
[編集] 日航ジャンボ機墜落事故
1985年(昭和60)8月12日に発生。日本航空123便ボーイング747SR100型機 (JA8119) 東京国際空港発 大阪国際空港行が、離陸12分後から32分間の迷走飛行の末、群馬県多野郡上野村の山中に墜落した。(搭乗員524名中520名が死亡)
著名な犠牲者としては歌手の坂本九、女優の北原遥子、阪神タイガース球団社長だった中埜肇、らがいる。生存者は女性4名のみであった。墜落現場は高天原山に派生する無名の尾根で、後に黒沢丈夫上野村村長が「御巣鷹の尾根」と命名した。タレントの明石家さんまは当日の番組収録が延期になったことにより、この事故を免れたことを後日語っている。またフジテレビアナウンサー(当時)の逸見政孝も新幹線に急遽変更し事故を免れた。その他にも乗り遅れたなどの理由で事故を免れたタレントもいる。
1978年に伊丹空港でしりもち事故を起こした際の圧力隔壁の修理ミス(ボーイングによる修理ミス)による飛行中の圧力隔壁の破損が原因とされているが、飛行中に破損し相模湾に落下した部品を回収していないことなどから、他の原因を唱える説もある。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空123便墜落事故
[編集] 1990年代
[編集] 日本航空MD11機乱高下事故
1997年(平成9)6月8日に発生。日本航空706便MD-11 (JA8580) 香港発 名古屋行きが名古屋空港への着陸進入中であったが、三重県志摩半島上空で突然急激に機首が跳ね上がり自動操縦が外れたため機体が乱高下した。
その結果搭乗員180名中乗客14名が重軽傷を負った。しかし重傷者のうち女性客室乗務員1名が1年8ヵ月後に意識が回復することなく多臓器不全で死亡したため、人身死亡事故となった。
- 運輸省航空事故調査委員会(当時)の報告書では、MD-11の機体特性を充分理解していなかった機長の一連の操縦操作が乱高下事故を誘発したと推定した。ただし機長および日本航空機長組合は自動操縦装置自体が故障したか、MD-11特有の操縦特性で事故が起きたと主張し対立している。
- 2002年5月に名古屋地方検察庁が事故機の機長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴し刑事裁判となった。裁判の過程で事故調査報告書が検察側の証拠として認められたことに対し、国際民間航空条約で禁じられた行為であると機長側弁護人が反発した。
- 裁判は、1審・2審とも機長の刑事責任を認めず無罪判決を下した。また検察側が最高裁への上告を断念したため2007年1月に確定した。
- 2審判決で名古屋高等裁判所は。「旅客機は何らかの原因で機首上げを行っていた可能性が高く、自動操縦が解除されたことが被害者の死傷につながったとは認められず、犯罪の証明がない」と判決し、事故調査報告書とは異なる事故原因を認定した。
- 詳細は、次の項目を参照されたい。→日本航空MD11機乱高下事故
[編集] 2000年代
[編集] 日本航空機駿河湾上空ニアミス事故
2001年(平成13年)1月31日に発生。午後3時55分頃に静岡県焼津市沖の駿河湾上空37000フィートで、羽田から那覇に向かっていた日本航空907便ボーイング747-400D(JA8904)と韓国の釜山から成田に向かっていた日本航空958便DC-10-40(JA8546)の2機の同僚大型旅客機がニアミスを起こし、907便は衝突回避のため急降下した。
この事故で907便の乗員16名乗客411名のうち、5名が重傷、37名が軽傷を負った(後の調査によって重軽傷者数は100名となった)。一方の958便の乗員13名乗客237名は全員無事であった。907便は羽田空港へ午後4時44分に緊急着陸した。本事件を国土交通省は航空事故に指定した。
- 事故当初はマスコミは907便機長に事故責任があったと糾弾し、捜査機関も業務上過失致傷罪で捜査した。また機長を日本航空が記者会見させなかったことが「被疑者隠し」として非難された。そのため、907便機長があたかも「過失」があったように報道されたため以後1年5ヶ月間運航常務からはずされたが、後の調査で全くの冤罪であったことが判明した。
- 2002年7月12日に公表された国土交通省航空鉄道事故調査委員会の事故調査報告書によると、事故の引き金は東京航空交通管制部の訓練中の管制官の間違った指示のためであると認定された。これは上昇させなければならない907便に対して便名を取り違えて907便に降下を指示し、さらに監督していた管制官も誤りに気付かなかった。
- 直後に907便のTCAS(航空機衝突防止装置)は上昇の指示を出していたが、管制の指示は航空管制では「国土交通省大臣の命令である」として絶対視されているものであり、機長はこれに従った。
- 東京航空交通管制部の管制官は、ニアミスの約50秒前にニアミスの警告システムが作動したため、958便を降下させて高度差をつけて回避しようとしたが、本来958便に出すべき降下の指示を誤って907便に出したため、907便は降下を開始した、結果的にこれは双方の機体が正面衝突する危険な指示であった。
- 正面衝突直前に907便と958便の双方に登載されているTCASが作動したが、958便はこの警報に従い降下を開始したが、907便のパイロットは管制の指示はニアミスを回避するためのものと信じたため、自機のTCASは「上昇」を指示していたにもかかわらず管制を信じて降下を続けた。衝突の間際になって担当管制官を指導していた別の管制官が事態の悪化に気付き、907便に上昇、958便に降下を指示しようとした。その際も管制官が907便を957便と言い間違えた。958便ではTCASの警報が「降下」からさらに急降下を要する「降下率増加」に変わり、指示通り降下率を増加させた。907便の機長は眼前の958便に衝突の危険を感じ、急降下を決断し、一方958便の機長も同様に衝突の危険を感じて降下を止め上昇に転じた。907便は958便の水平方向に105mから165m、高度差20mから60mを通過して回避に成功したが、一連の907便の急降下の過程で100名の負傷者を出していた。双方の旅客機に搭乗していた677名の生命が脅かされる極めて危険な状況であった。
- 事故後、運航規定の改訂を行い、TCASの作動状況が管制側のレーダースクリーンに表示できるシステムの開発と管制官の教育訓練の強化などが実施された。また管制官の指示とTCASの指示が矛盾した場合にはTCASに従うこととされた。
-
- 2003年5月7日に国土交通省東京航空交通管制部の管制官2名と907便の機長を業務上過失致傷と航空危険行為処罰法違反(過失犯)の容疑で東京地方検察庁に書類送検した。ただし907便機長は、航空管制では捜査当局が主張するように、航空管制に逆らうことは出来なかったとして、刑事責任を否定した。そのため検察庁は過失は認定できないとして嫌疑不十分のため不起訴処分とした。一方の航空管制官2名は2004年3月30日に業務上過失傷害罪で在宅起訴した。ニアミスで航空管制官の刑事責任が問われたのは本事故が初めてのケースであったが、1審の東京地方裁判所は無罪を宣告し、現在控訴審で争われている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『機長の真実―墜落の責任はどこにあるのか』デヴィッド・ビーティ 講談社 2002 ISBN 4062111195
- 『日本航空事故処理担当』山本善明 講談社+α新書 2001 ISBN 4062720647
- 『大事故の予兆をさぐる』 宮城雅子 講談社(ブルーバックス) 1998 ISBN 4062572095
- 『死角 巨大事故の現場』 柳田邦男(著)文庫 1988 新潮社 ISBN 4101249083
- 『マッハの恐怖』柳田邦男(著)文庫 1986 新潮社 ISBN 4101249059
- 『続・マッハの恐怖』 柳田邦男(著)文庫 1986 新潮社 ISBN 4101249067
- 『疑惑―JAL123便墜落事故』 角田四郎 1993 早稲田出版 ISBN 4898271529
- 『クライマーズ・ハイ』 横山秀夫 2003 文藝春秋 ISBN 4163220909