東急バス目黒営業所
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東急バス目黒営業所(とうきゅうバスめぐろえいぎょうしょ)は、都内の目黒通り・山手通り周辺を運行する路線を所管する営業所である。所在地は、目黒区目黒本町1-14-18。最寄り停留所はかつての町名「清水」を名乗る。1940年9月に下目黒営業所の移転によって開設され、以後、周辺営業所との路線調整を繰り返しつつも、目黒通りを主軸とする目黒区周辺の路線を変わらず担当し続けている。営業所の略号は「M」。
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[編集] 沿革
[編集] 目黒通りのバスの始まり
目黒通りの公共交通の歴史は古く、明治初年に碑衾村の人々によって始められた、権之助坂と玉川野毛の渡し場を結ぶ乗合馬車に始まる。その後、下目黒の人々が乗合自動車の運行を開始するにあたり、この馬車路線の権利を譲り受けることとなった。これが1919年(大正8年)のことであり、バスとしての歴史も大変古いものになる。この路線は目黒乗合自動車によって運行され、目黒駅前~玉川等々力間を結ぶものであったが、1923年(大正12年)4月に目黒自動車運輸に買収された。
この目黒自動車運輸は、1920年に設立され、当初は主に貨物や貸切自動車の営業を営んでいた会社である。目黒乗合路線を買収した直後の1923年9月に関東大震災が発生し、郊外への転居者が激増したため、図らずも沿線人口が増加し、同社の業績もそれに応じて向上していった。
その後、目黒自動車運輸は玉川電気鉄道の傍系会社となった後、同系の芝浦乗合自動車とともに1937年に目黒蒲田電鉄に合併している。この際、権之輔坂にあった本社は目黒蒲田電鉄の下目黒営業所として引き継がれた。目黒蒲田電鉄は、もともと目黒区では南部の洗足、大岡山、自由ヶ丘などにおいて運行していたが、この合併によって概ね祐天寺以南の山手通り上を除く範囲が同社のエリアとなった。さらに、1939年に東京横浜電鉄を合併し、区のほぼ全域に東横(目蒲が社名を変更)のバスが走るようになった。
この時点で、目黒区内の営業所は、前記の下目黒営業所のほか、旧・東京横浜電鉄より引き継いだ中目黒営業所があり、それぞれ合併前と同じように路線を所管していた。また、旧・目蒲路線も以前のまま神明営業所が担当しており、営業エリアと車庫が大きく離れていた。そこで、目黒区内の路線に効率的な配車を行えるよう、1940年9月29日に下目黒営業所を目黒区のほぼ中央にあたる清水に移転、目黒営業所と改称し、新たな営業拠点として周辺路線を集約したのである。
その後、1942年2月に陸上交通事業調整法に基づく戦時統合により、以下の路線区間を東京市に譲渡した。
- 五反田駅前~西町(現・高輪三丁目) 1.01km
- 高輪警察署前~三田三丁目 1.80km
- 目黒駅前~日吉坂上(現・白金台駅前)~高輪警察署前~西町(現・高輪三丁目)~品川駅前 3.03km
結果、所管路線は下表の通りとなった。(東京急行電鉄五十年史より抜粋、加筆)
管轄営業区間 | キロ程 | 旧所属事業者 | 備考 |
目黒駅前~自由ヶ丘 | 5.33km | 目黒自動車運輸 | 自由ヶ丘=八雲三丁目 |
目黒営業所前~小山 | 2.04km | 目黒自動車運輸 | 現在の平和通り経由 |
元競馬場前~祐天寺駅前 | 1.64km | 目黒自動車運輸 | |
清水~五本木宮前 | 0.81km | 目黒自動車運輸 | 五本木宮前=守屋図書館の西 |
祐天寺駅前~碑文谷 | 1.40km | 旧・東横 | 碑文谷=学芸大学駅 |
田切~獣医学校裏 | 1.35km | 旧・東横 | 獣医学校は現在の日本大学生物資源科学部。 1941年元旦に祐天寺駅~獣医学校を不動前(旧・中目黒)より移管 |
武蔵小山駅前~宮前町 | 3.76km | 目蒲 | |
洗足通~円融寺前 | 0.61km | 目蒲 | 洗足通=原町交番 |
自由ヶ丘駅~駒沢ゴルフコース | 2.12km | 目蒲 | 駒沢ゴルフコースは現在の駒沢公園。 1941年元旦に神明より移管。 |
[編集] 戦後の目黒営業所
戦後は、休止線の復旧を行うとともに、新規区間の開通が徐々に進められた。目黒通りを走る自由ヶ丘線は、1948年より都営バスとの相互乗り入れを開始し、都心への直通運転を行うようになった。また、祐天寺方面の路線は目黒駅~三軒茶屋間を結ぶ三軒茶屋線に、自由ヶ丘駅~駒沢ゴルフコース間の路線はグランド線(のち瀬田営業所に移管)へと発展した。
目黒区の南部では、武蔵小山駅周辺へと東西に結ぶ戦前の路線が廃止され、戦後新たに碑文谷線、洗足線、渋谷線のような各々の地域から国鉄のターミナルに連絡する路線が開通した。また、洗足線や不動線のように、目黒区内から渋谷駅へと連絡する路線ができたことも、戦後の変化の一つである。
[編集] 目黒通り新交通システム
目黒通りでは、1986年から「東急バス新交通システム」と呼ばれるバスロケーションシステムが導入された。
導入地域に目黒通りが選ばれたのは、渋谷駅など他のターミナルを発着する路線と比較して、路線形態や管轄営業所が複雑でなかったためである。管内の対象路線は、碑文谷線、清水線、三軒茶屋線で、特に碑文谷線と清水線にはグレードの高い新型車両(109車)が導入された。また、一部の停留所には接近案内表示も設けられ、弦巻営業所の学校線も案内表示にのみ対応した。
システム最大の特徴は、メイン路線である清水線の運行の確保を重視、これが乱れた時に、本数を多く設定してある碑文谷線から車両を充ててメイン路線を確保する、という総合的な運行管理が目玉。その全てをコンピュータ制御することにより、決定した1ストローク分のダイヤが運転席のディスプレイに表示されるようになった。また、同時に停留所に自動変更された予定時刻が表示され、該当車の方向幕が自動的に変更されていた。このため、目黒駅前では、必ず同じタイミングで方向幕が変わるバスの姿を見ることが出来た。当時としては最高レベルのシステムであり、利用者の増加に貢献した。
なお、このシステムは老朽化により1998年に廃止され、現在は無線による接近表示システムに切り替わっている。同様の無線システムは、池上営業所管内、青葉台営業所管内でも導入されているほか、「東急バスナビ」として、携帯電話等に運行状況を随時表示するサービスも全路線で提供されている。
[編集] 現行路線
[編集] 碑文谷線
- 黒01:目黒駅~清水~大岡山小学校前
碑文谷線は、目黒営業所の主力路線であり、1日あたりの運行回数が都内の東急バス路線の中で最も多い。このため、清水線とともに新交通システム対応「109車」への一斉リニューアルや、同車を置きかえるべく実施された都内民営事業者としては初となるノンステップバスの大量投入など、数多くの先進的な試みが行われてきた。1987年11月2日から深夜バスも運行している。現在は基本的に全便ノンステップ車で運行。
この線のサレジオ教会より西側は反時計回り・一方通行の循環区間であり、方向幕上の終点・大岡山小学校は環七上ということもあって中間停留所のような扱いとなっている。実質的に終点の役割を担っているのは、その次の碑文谷八幡であり、ここに時間調整のための待避スペースがある。
碑文谷線が開通したのは1956年5月16日のことで、当初は恵比寿駅を起点とし、目黒駅~田向~サレジオ教会~区立七中~目黒駅というルートで循環運行していた。1957年2月11日に目黒駅発着に短縮され、大岡山小学校前を廻るようになったのは、同年12月6日のことである。また、かつては大岡山小学校~碑文谷八幡間に「宮ヶ丘」という停留所が設けられるなど、付近の停留所の位置関係も若干違っていた。
[編集] 清水線
清水線・黒02系統は、目黒駅から目黒通りを等々力七丁目まで走り、上野毛駅を経由し二子玉川駅までを結ぶ。碑文谷線とともに、1986年にバス新交通システムが開始され、1997年にはノンステップバスが大量導入された路線である。日中は概ね10分間隔ということもあり、比較的使いやすい路線である。現在は基本的に全便ノンステップ車で運行。
終戦直後は、目黒駅~清水として運行していた。この区間には、現在も出入庫便が少数営業運行しているが、この頃は一般路線として非常に多くの便数があった。その後、1960年代に入り今のように二子玉川園前(現・二子玉川駅)まで延長された。なお、清水線は、1960年代に不動前営業所に移管されていた時期があり、不動前営業所の廃止後は一時的に大橋営業所が担当した。大橋営業所は、東急玉川線廃止後の代替バスを主に受け持つべく開設された営業所であるが、この関係から1969年5月11日より二子玉川園前を越えて砧本村に至る便が運行されるようになった。この便は、「黒03」系統として1988年2月15日まで運行された。また、2004年9月16日から目黒駅~等々力七丁目間で深夜バスの運行も開始している。
多摩川花火大会開催時には、上野毛駅~二子玉川駅間が通行止めとなるため、運行は上野毛駅発着となり、車両は環八上の瀬田営業所を利用して折り返すという、風変わりな運用が見られる。
[編集] 自由が丘線
- 東98:東京駅南口~東京タワー~慶應義塾大学前~目黒駅~清水~都立大学駅北口~等々力七丁目~等々力操車所
- 東98:目黒駅~清水~都立大学駅北口~等々力七丁目~等々力操車所
- 東98:東京駅南口~東京タワー~慶應義塾大学前~目黒駅~清水
数多く存在した都営バスとの共同運行路線の一つであり、東急と都営との共同運行としては現存する唯一の路線である。以前は、このような民営バスの東京駅乗り入れ路線が数多く存在したが、自動車交通の発展とともに生じた幹線道路の渋滞、地下鉄路線の相次ぐ開業等により、その多くが山手線駅等を境に分割されてきた。その中で、[東98]は分割されずに残っている。目黒通り沿線の都立大学駅以東は鉄道駅から比較的遠いためか、目黒駅を跨いで山手線内と目黒通り沿線間での利用客が比較的多く、これが分割されない大きな理由と考えられる。また、東急バスにとっては、東京駅までの定期路線免許は資産の一つであり、これを維持する事で同駅に乗り入れる団体バスの運行手続きが大幅に簡素化できる(定期路線の臨時便扱いで自由に増発可能)というメリットもあった。
この路線は、1946年2月に目黒駅~柿の木坂(現・碑文谷警察署付近)を復旧したのが戦後の始まりで、同年6月14日に都立高校へ、9月に自由ヶ丘(現・八雲三丁目)へと延長されていった。1948年11月1日より、都営バスとの相互乗り入れにより東京駅まで運行するようになったが、その後も自由ヶ丘発着の時代が長く続き、線名の由来となっている。等々力へ伸びたのは、相互乗り入れ開始から10年以上もあとの1959年3月20日のことである。1968年6月13日からは、通勤時間帯に限って目黒ランプ~霞ヶ関ランプ間で首都高速を経由する便が登場し、1987年5月15日まで運行されていた。首都高経由便は、車体前面にヘッドマークを掲出していた。
沿線は変化に富み、この路線の愛好者は少なくない。東京駅を出たバスは、東京国際フォーラムや皇居端、経済産業省前や西新橋のオフィス街をゆく。東京タワー下、済生会中央病院、庭園美術館の脇を通り目黒駅を抜けると、目黒・世田谷の住宅地に入ってゆく。終点の等々力操車所周辺は閑静な住宅地であり、数分で東京23区内唯一の渓谷、等々力渓谷に出ることができる。
東急・都営共に10.5mの中型ロングノンステップ車(ナロー車;都営は日野HR,東急は三菱MK)を中心に運行。
- 2007年1月~3月にNTV系列で放映されたドラマ「ハケンの品格」で、主人公の大前春子が丸ノ内にある会社へ通勤に使うバスは、目黒営業所所属の車輌。(常に三菱ふそう・エアロスターのM284号)丸ノ内に東急バス、となると、都営バスと共同運行の、東98系統かと思われる。出て来るバスは東急のみで、都バスは一回も出てこない。
[編集] 品川線
- 渋41:渋谷駅~大橋~中目黒駅~大鳥神社前~大崎駅~居木橋~大井町駅
- 渋41:渋谷駅~大橋~中目黒駅~大鳥神社前~大崎駅→居木橋
- 渋41:渋谷駅~大橋~中目黒駅~大鳥神社前~清水
- 渋41:清水~大鳥神社前~大崎駅~居木橋~大井町駅
品川線は、渋谷駅から大橋を経て山手通りを南下し、第一京浜(国道15号)を経て大井町駅に至る路線である。大井町発のバスは大井町駅東口を出るとすぐに左折してゼームス坂を通行するため、南馬場までは別ルートとなっている。路線全般にわたって幹線道路を通行しており、接続する鉄道駅も多いためかなりの利用者がある。しかし、路線の大半が渋滞の激しい山手通りであるためしばしば遅延が発生しており、定時運行の難しい路線でもある。
この路線は、1929年11月21日に東横乗合が運行を開始した大橋~大鳥神社前の路線がベースとなっている。終戦直後は、渋谷駅~品川区役所(旧庁舎。新馬場駅付近)を結んでおり、当時の線名は品川区役所線といった。区役所が広町の現庁舎に移転したときにも、区役所構内を発着する便が新設され、長年品川区の北部と区役所を結ぶ連絡線の役割を果たしてきた。しかし、1971年6月1日からは全便が大井町駅までの運行となり、線名からも「区役所」の文字が消えて「品川線」となった。
また、1994年6月末日まで、道玄坂上停留所付近から渋谷駅構内まで東急バス専用道があり、その終端となる東急百貨店東横店西館2Fには、ターンテーブルを備えたバスのりばがあった。現在の渋谷マークシティ内、京王井の頭線と東京メトロ銀座線の線路に挟まれた場所に当たり、品川線はそこを起点としていた。こののりばでは路線バスのほか、高速バスの発着も行われており、待合室も併設されていた。この場所は東急玉川線(路面電車)の渋谷駅跡地で、玉川線廃止後、専用軌道はバス専用道となり、停車場跡地にターンテーブルが設置され、1970年5月17日から使用されていたものである。玉川線は東急百貨店東横店西館(当時は玉電ビル)を介して山手線に直結していた。JR渋谷駅の「玉川口」という名称は当時の名残である。
品川線はこの専用道と停留所を使用していたため駅付近の渋滞に影響されにくく、駅に直結していたため便利であった。その後、渋谷マークシティ建設に伴いターンテーブルは撤去され、路線バスの停留所はなくなったが、バス専用道入口は引き続き高速バスターミナル(マークシティ5F)の専用道として残っている。
この路線は、東横乗合の流れを汲む不動前営業所が担当し、同所の廃止により1969年5月7日からは大橋営業所が担当してきた。しかし、その大橋営業所も廃止が決まり、2002年7月16日に目黒営業所へ移管され、これと同時に清水~渋谷駅間の出入庫系統が新設された。2003年3月19日には、渋谷駅~大崎警察署の折り返し便を居木橋まで延長されている(渋谷駅方向は大崎駅発)。また、1991年3月18日から渋谷駅~大橋~大鳥神社前~目黒駅というルートで深夜バスが運行されていたが、短命に終わっている。
なお渋41系統は、旧大橋営業所の指定車種が日野自動車の車両であったことから、その流れとして、この系統では原則として全車両日野自動車の車で運行されていたが、近年は三菱ふそう車も運用される。
[編集] 不動線
洗足線[1]と同じく中型車両で運行される路線であり、1959年12月18日に開通した。多くの区間で狭隘な道路を走行し、下目黒五丁目~不動尊門前間では、反対方向のバスとは決まった場所ですれ違いを行っている。不動尊の入口付近は特に狭いため、誘導員が配置されており、境内にはバスのみ乗り入れが認められている。
本路線は目黒不動尊の境内を通行しているが、毎月28日は縁日が開催されるため境内の通行ができなくなる。そのため毎月28日は「渋谷駅東口~林試の森入口」「不動尊門前~五反田駅」の分離運転となり、林試の森入口~不動尊門前の間は徒歩連絡となる。この間を徒歩連絡で利用する乗客には、林試の森入口または不動尊門前にて降車する際に乗継券が配布される。
[編集] 廃止路線
[編集] 公園線
- 黒04:目黒駅~清水~都立大学駅(現・都立大学駅北口)~駒沢公園
目黒通りを中根町まで進み、中根町交番前交差点を右折、自由通りを国道246真中交差点まで進み左折、駒沢交差点で左折、駒沢通りを左折し駒沢公園に至り、駒沢公園の先で自由通りに入り目黒駅に向かう、終点部分で循環する路線であった。駒沢営業所を通過するが、行き先は「駒沢公園」となっていた。
[編集] 野沢線(学芸大学駅経由)
- 目黒駅~学芸大学駅~野沢龍雲寺
[編集] 車両
大型短尺車と中型車、中型ロング車が所属。メーカーは109車以来の主力三菱ふそうと大橋営業所廃止時に大量移籍した日野(ただし中型車は元から日野)である。以前は品川線で日野車が、碑文谷線・清水線で三菱ふそう車が、と路線毎にメーカーが分かれていたものの近年は共通運用に変わりつつある。大型短尺ノンステップ車は109車の代替として集中的に目黒営業所へ投入されてきた三菱ふそうニューエアロスターノンステップ車と大橋から移籍した日野ブルーリボンノンステップ車、2006年度から投入されている日野ブルーリボン2が碑文谷線、清水線、品川線で運用、特に初期三菱ふそうノンステップ車は109車の塗装を受け継ぎ上中下のライン共に赤であり、他の営業所のような青いラインが入っていない。大型短尺ツースッテプ車は大橋からの移籍車を中心とした日野ブルーリボンと元からの三菱エアロスターが品川線で運用。中型車は日野レインボーのみで不動線で運用。ノンステップ車とツーステップ車が所属。中型ロング車は三菱ふそうエアロミディMKが所属し自由が丘線のみで運用。
[編集] 脚注
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