松下幸之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松下 幸之助(まつした こうのすけ、明治27年(1894年)11月27日 - 平成元年(1989年)4月27日)は、日本の実業家。松下電器産業を一代で築き上げた経営者である。また、政治家の育成にもあたり、松下政経塾を創設した。関西商工学校(現・関西大倉高等学校)電気科中退。正三位勲一等
目次 |
[編集] 来歴・人物
和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木(現・和歌山市)に農業・松下政楠 とく枝の三男として生まれた。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓がつけられたという。父親が米相場で失敗して財産を失ったため、小学校を4年で中退しわずか9歳で火鉢店に丁稚奉公に出た。16歳で当時の大阪電燈(現在の関西電力)に入社し、7年間勤務する。その後同社を退社し、当時生活していた大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)にて、妻むめのとその弟である井植歳男(後に三洋電機を設立、1969年没)の3人でソケットの開発を開始した。1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)へ移転し、「松下電気器具製作所」(現・松下電器産業)を個人創業する。アタッチメントプラグ、電池式自転車用ランプなどを開発し、ヒット商品を数多く生み出した。
1925年には「ナショナル」ブランド(1989年3月31日までは音響部門もナショナルだったが、1989年4月1日以降はパナソニックにブランドを変更)を立ち上げ、乾電池やラジオ受信機などの製造を始める。1935年に社名を現在の「松下電器産業株式会社」とし、同時に社長に就任する。だが、第二次世界大戦中は世情から、ラジオ工場の流れ作業に着眼した軍の指令により軍需品を生産することになる。手始めに1943年4月には松下造船(株)を設立し、終戦までに56隻の250㌧クラス木造船を建造。次いで同年10月には松下航空機(株)を設立、強化合板による「木製飛行機」を終戦までに4機製作した。このため戦後はGHQにより制限会社に指定され、幸之助も公職追放になってしまう。
しかし公職追放後、幸之助は「松下は一代で今の会社を築いたものであり、買収などで大きくなったわけでもない。松下は財閥ではない」とGHQに抗議を続けた。1946年11月、PHP研究所を設立。その後、松下電器労働組合のGHQへの抗議もあり、制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する。戦後のデフレ経済に松下も例外無く苦境に陥り経営危機を迎えたが、直営工場の操業時間短縮・リストラ・賃金カットを断行し危機を乗り切った。この当時の経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。
1961年に会長に就任するが、この頃は会社の経営も芳しくなかった。しかし、自ら営業本部長代行を兼務、窮地を救った。1960年に和歌山市名誉市民となる。1973年、80歳になるのを機に現役引退し、相談役に退いた。1974年には明日香村名誉村民となる。1989年4月27日に逝去。享年94。
1950年以降長者番付で10回全国1位を記録(1955年~1959年、1961年~1963年、1968年、1984年)、また40年連続で全国100位以内に登場した。一生で約5000億円の資産を築いたと推定される。
松下幸之助は経営の神様と呼ばれ多くの経営者の目標とされた。有名な発言として「月給10万円の人は月100万円の働きを、月給20万円の人は月200万円の働きをして欲しい」と語ったとされる。また、「松下はどのような会社ですか?」という問に対し「松下電器は人を作る会社です。あわせて家電を作っています」と答えた。
[編集] 栄典
[編集] エピソード
- 自転車屋に丁稚奉公していたころ、使い走りでよくタバコを買いに行かされた、そのときいちいち買いに出かけるよりもまとめ買いしておけばすぐにタバコを出せる上、当時まとめ買いすると単価が安くなるため、これを利用し一人で利益を儲けた。しかしこれを奉公仲間から告げ口され店主から大目玉を食らう。このころから経営の才覚をあらわしていたと同時に一人だけ大きく得をしてはならないということに気づく。
- 1970年の日本万国博覧会(大阪万博)開催中のこと。ある真夏の暑い日、松下電器の展示館の前に並ぶ客と一緒に並び、実際に展示館に入るまで2時間ほど並んで待った。その際、並んで待っている間は全く陽射しを避けるところがないことに幸之助が気付き、展示館の担当者に紙製の日よけ帽子を配布するよう指示した。この帽子に「松下館」と文字を入れたためにそれが宣伝効果となり、松下館は連日満員で長蛇の列をつくったという。顧客への細かい配慮を利益に結びつけたいい例である。
- 1965年の第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場している。
- 東京ディズニーシーのインディ・ジョーンズ・アドベンチャーのQライン(並ぶ列)に展示されているインディ博士の仕事場に置かれている新聞に写っている男は、他ならぬ松下幸之助である。理由は、松下がインディ・ジョーンズ・アドベンチャーの提供を行っているからである。
- スバル360の一番最初の購入者は幸之助である。
- 完成直後の新商品を見て、製造担当者に「ご苦労さん。ええもんができたな。さあ、今日からこの商品が売れなくなるような新商品をすぐに作ってや」といった話は余りにも有名。
- 幸之助は創業の地である大阪市大開に大変思い入れがあったようで、どこへ転居しても本籍を大阪市大開から生涯変えなかったという。
- 郷里に和歌山県出身の友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑があるが題字は同郷の湯川秀樹博士の筆によったものである。
[編集] 家庭
長女幸子の婿養子に旧華族(伯爵)で日本画家の平田栄二の子正治をむかえた。正治の祖父東助は旧米沢藩士で桂太郎内閣では内務大臣を務めた人物である。
[編集] 系譜
- 松下氏
房右衛門━━政楠━┳伊三郎 ┣八郎 ┗幸之助
[編集] 記念碑等
[編集] 主な著書
- 『PHPのことば』(PHP研究所・甲鳥書林、1953年4月) - 初の著書。
- 『道をひらく』(PHP研究所、1968年5月) - 450万部を超える大ベストセラー。
- 『続・道をひらく』(PHP研究所、1978年1月)
- 『商売心得帖』(PHP研究所、1973年2月) - 85万部
- 『経営心得帖』(PHP研究所、1974年7月) - 45万部
- 『指導者の条件』(PHP研究所、1975年12月) - 55万部
- 『社員心得帖』(PHP研究所、1981年9月) - 45万部
- 『人生問答(上・中・下)』(共著:松下幸之助・池田大作)潮出版社