歩兵連隊
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歩兵連隊は歩兵を主とする連隊。陸上自衛隊においては普通科連隊と呼ばれる。
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[編集] 日本陸軍
日本陸軍には以下のような歩兵連隊があった。
[編集] 近衛歩兵連隊
近衛歩兵連隊が第1から第10連隊まで置かれた。近衛歩兵連隊は、近衛師団創設後は同師団(後に第1ないし第3近衛師団に分かれた。)に属した。
- 近衛歩兵第1連隊(東京)
- 明治7年1月20日に編成され、同年同月23日に軍旗を親授される。編成に際して明治天皇より「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」との勅語を賜りそれに対して連隊長が「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」と奉答する。東宮は近衛師団の本連隊付となる通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・1912年(大正元年)9月以降は裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となっていた。西南の役に出征したほか、日清戦争では台湾の蕃族征討に当たる。日露戦争では第1軍隷下として奉天会戦等に参加する。日中戦争では昭和14年11月2日に動員が下令される。大東亜戦争中には宮城の守護に当たる。昭和20年5月25日に米軍機によって皇居が爆撃された際には消火に当たる。昭和20年8月25日に軍旗奉焼。
- 日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、後備近衛歩兵第1連隊長須知源次郎陸軍歩兵中佐指揮の1100名以上の兵員を乗せた輸送船常陸丸がロシア艦隊に遭遇し撃沈される(常陸丸事件)。
- 近衛歩兵第2連隊(東京)
- 明治7年1月23日に近衛歩兵第1連隊と同日に軍旗を親授される。佐賀の乱に出征するも会戦の機会なく帰還する。西南戦争では田原坂の戦い等に参加する。日清戦争では台湾平定に当たる。日露戦争では明治37年2月4日に動員下令され、奉天会戦等に参加する。昭和15年9月26日に北部仏印進駐の印度支那派遣軍の基幹部隊としてハイフォン港に進駐する。昭和16月8日に東京に帰還する。大東亜戦争中は宮城の守護に当たる。昭和20年8月25日に軍旗奉焼。
[編集] 「歩兵連隊」
冠称無しの「歩兵連隊」は第1から第524聯隊まで置かれた。各歩兵連隊には、衛戍地が定められて、永久にその土地に駐屯するものとされた(もっとも、移動はまままあった。)。陸軍常備団隊配備表(明治21年5月12日勅令第31号)の時点では次の衛戍地が置かれた。括弧内は対応する歩兵連隊である。
東京(第1、第3)、高崎(第15)、佐倉(第2)、仙台(第4、第17)、新発田(第16)、青森(第5)、名古屋(第6、第19)、豊橋(第18)、金沢(第7)、大阪(第8、第20)、大津(第9)、姫路(第10)、広島(第11、第21)、丸亀(第12)、松山(第22)、熊本(第13、第23)、小倉(第14)、福岡(第24)。
- 歩兵第2連隊(照7746)(佐倉→水戸)
- 歩兵第4連隊(勇1301)(仙台)
- 歩兵第5連隊(杉4715)(青森)
- 明治4年に東北鎮台第20番大隊(弘前町)が置かれる。明治11年5月1日に連隊が編成され、明治12年1月16日に軍旗が授与される。明治35年に連隊の一部が八甲田山中で遭難する(八甲田雪中行軍遭難事件)。日清戦争・日露戦争・満州事変(連隊主力の第14混成旅団)に参加する。
- 歩兵第7連隊(武1524)(金沢)
- 初代旗手は千田登文少佐。明治10年2月22日に西南の役への出兵が命ぜられる。第2大隊が西郷軍を追い詰める。第9師団司令部所在地にある。明治27年8月4日に日清戦争への動員令が下り、同月9日に動員を完了する。北陸線へ乗車のため、金沢から敦賀まで徒歩で移動し、9月7日に広島を出航、同月13日仁川港に上陸する。日清戦争では赫々たる戦果を挙げ戦死者は36名である。日露戦争中の旅順攻略戦にて盤龍山東堡塁に突入し殆ど全滅、大内連隊長以下大隊長3名戦死。連隊旗が一時敵の手に渡るものの、荒島上等兵が自ら負傷しながらも奪還し第3軍司令官乃木希典大将から個人感状を受ける。第一次上海事変中の昭和7年7月31日には林大八連隊長が戦死する。支那事変では南京入城に参加する。連隊(長伊佐一男大佐)は、国際委員会の管理する安全区を厳重に守衛し、許可のない者は安全区内に立ち入らせなかった。終戦時は台中にある。
- 歩兵第8連隊(淀4072)(大阪)
- 歩兵第10連隊(大阪→姫路→岡山)
- 歩兵第11連隊(鯉5173)(廣島)
- 歩兵第14連隊(国4903)
- 歩兵第15連隊(照7757)(高崎)
- 歩兵第16連隊(勇1302)(新発田)
- 明治17年6月に編成される。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件、大東亜戦争に参加する。
- 歩兵第17連隊(杉4717)(仙台→秋田)
- 歩兵第18連隊(雷3219)(豊橋)
- 明治17年に名古屋に編成される。明治18年5月10日に豊橋に移営する。
- 歩兵第21連隊(鯉5714)(浜田)
- 跡地は浜田第一中学校、島根県立浜田高等学校
- 歩兵第25連隊(豊平町月寒)
- 1939年から樺太混成旅団に属していた。旅団が第88師団に改編になった後も所属し樺太南部の防衛に当った。
- 歩兵第26連隊(旭川)
- 明治33年12月22日軍旗拝受。奉天会戦で連隊長戦死。
- 歩兵第27連隊(旭川)
- 明治33年12月22日軍旗拝受。釧路で終戦。
- 歩兵第28連隊(旭川)
- 歩兵第29連隊(会津若松)
- 歩兵第30連隊(高田)
- 歩兵第31連隊(弘前)
- 歩兵第32連隊(山3475)(山形)
- 明治31年3月軍旗親授。終戦時所属師団は第24師団。沖縄で終戦。跡地は旧山形城跡の霞城(かじょう)公園。
- 歩兵第34連隊(静岡)
- 歩兵第35連隊(富山)
- 日露戦争では乃木第3軍に属し旅順攻囲戦、奉天会戦に参加し満身創痍となる。その後シベリア出兵、山東出兵、第一次上海事変、第二次上海事変、南京攻略戦などに歴戦。太平洋戦争時は満州の守備についていたが、昭和19年第32軍に編入され沖縄の守備につく。しかし沖縄戦直前に台湾に配置替えとなり、ほとんど無傷のまま終戦を迎えた。
- 歩兵第47連隊(大分)
- 歩兵第53連隊(奈良)
- 歩兵第54連隊(岡山)
- 歩兵第55連隊(佐賀)
- 1925年、宇垣軍縮により廃止。
- 歩兵第68連隊(岐阜)
[編集] 台湾歩兵連隊
台湾歩兵連隊は2個置かれた。
[編集] 支那駐屯歩兵連隊
北清事変(義和団の乱)に際して、清朝による外国公館保護が十分でなかったことから、列強は北京の公館を防衛するために自国の軍隊を駐屯させる権利を得た。これに基いて、日本も北京(北平)に陸軍部隊を駐屯させた。当初は交代で内地から部隊を派遣していたが、後に永駐の部隊として、支那駐屯歩兵連隊が編成された。
支那駐屯歩兵連隊は3個置かれた。支那駐屯歩兵連隊を統括する部隊の変遷は頻繁で、昭和12年8月以降は支那駐屯混成旅団、昭和13年3月12日以降は支那駐屯兵団、昭和13年6月21日以降は第27師団に属した。
1937年(昭和12年)7月7日に支那駐屯歩兵第1連隊に対して何者が発砲し支那事変の契機となった(盧溝橋事件)。
[編集] 独立歩兵連隊
独立歩兵連隊は関東軍の独立混成第11旅団に属していたが、後に第26師団に属することとなった。各独立歩兵連隊は第26師団に属して以降も「独立歩兵第○○連隊」を称し続けた。
[編集] 歩兵連隊の定員(明治23年平時編制)
明治23年11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。
- 連隊本部(連隊長以下41名、乗馬5匹)
- 大隊本部(大隊長以下16名、乗馬3匹)
- 中隊(中隊長以下136名)
この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。
よって、連隊全体では、将校70名、下士145名、兵卒1440名、各部66名の総計1721名、乗馬14匹が定員となっていた。
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