源盛経 (河内源氏)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河内源氏の源盛経は下記の二人がいる。
[編集] 源盛経 (河内源氏義忠流)
源盛経 みなもとのもりつね(稲沢盛経 いなさわもりつね) 散位源盛経
河内源氏3代で鎮守府将軍源義家の曾孫。河内源氏4代で河内守源義忠の嫡孫。源経国(河内源太経国)の長男。稲沢小源太盛経と称す。平安時代末期の武士。生没年不詳(1130年前後~1183年以降)。史料では「散位源盛経」と記されることが多い。稲沢氏の祖。
源平の戦いのなかで
平重盛とは又従兄弟にあたり、源義朝とは従兄弟にあたる。父の源経国は、源義朝に従って保元の乱に参陣しているが、彼が平治の乱や源頼朝の挙兵の際にどのような行動をとったかは定かではない。
一部の史料では、従兄弟の子(父の源経国の弟である源忠宗の孫)の源季貞(平家の侍大将)に従い、一族(祖父の源義忠の弟である源義時の子)で先祖伝来の河内国石川荘の地を継承した石川源氏の源義基らを討伐したとされる。倶利伽羅峠での戦いか、続く篠原の戦いで討ち死にしたという記録もあるが、壇ノ浦で捕らえられたともいう。
稲沢小源太の由来は稲沢は領地の地名というが、その所在は明らかでない。また、一部の史料では河内判官という号が見えるが、父の経国、祖父の義忠も同じ号を持っていることから襲名したか誤伝と思われ、官位との関係はないと思われる。北面の武士であったという記録もある。確認できる官位は従六位下兵庫大允のみであり、多くの史料には「散位」と官職は記されていない。
弟に法印僧都蓮俊がいる。子に、盛国、盛家、経家、経忠などの実子と養子の資家の名が系譜上は確認できるが、子らの活動は彼以上に不明な部分が多く、歴史の表舞台に現われるほどの存在ではなく没落していったものと思われる。ただ、経忠の子孫という野長瀬氏のみ、鎌倉時代末期になって歴史の表舞台に現われる。
子孫
- 盛国…孫太郎と称す。稲沢氏二代目。平家から任官を受けていたが、平家滅亡により無位無官となる。後に、阿波国にあったが源頼朝から平家加担の罪を許されたが所領は没収、足利家に預けられ、足利氏の家臣の列に加わったという。子に稲沢盛義、稲沢盛親らがいる。その末裔は足利氏の分流である畠山氏、斯波氏、細川氏、一色氏、今川氏、土岐氏などに仕えたという。本家筋は畠山氏の衰退とともに消えた。豊臣氏の家臣で七手組組頭の速水守久の家臣に稲沢入道とあるのはその末裔。また宮城県・福井県・富山県・大阪府・兵庫県・長崎県・佐賀県・福岡県などにこの子孫が数家ある。
- 経忠…野長瀬氏初代。野長瀬庄の庄司となり野長瀬太郎、野長瀬孫太郎を称す。子に承久の乱で活躍したという野長瀬頼忠がいる。その末裔に南朝の忠臣野長瀬盛忠が登場する。現在も和歌山県に子孫存続。野長瀬氏の項目を参照。
- 資家…養子。本姓は那須氏か。那須頼資の子の稲沢資家と同一人物であるともいわれるが確証はない。稲沢資家は、下野国の北部、稲沢に拠点(稲沢氏館)を築いた。その子孫は那須七党のひとつ、旗本伊王野氏に仕え、江戸時代には御家人。伊王野本家改易後も存続し、現在も東京都を中心に関東一円に繁茂。
- 注:盛国と盛家は同一人物とする説もある。また、資家に関しては、盛家の養子とする説もある。
[編集] 源盛経 (河内源氏頼清流)
源盛経 みなもとのもりつね 皇后宮少進盛経
河内源氏初代で鎮守府将軍源頼信の次男で陸奥守源頼清の次男の下野介(上野介)源兼宗の孫。生没年不詳(1100年頃~12世紀中期)。武芸に秀で、帯刀などを経て、警護の武士として朝廷に仕えた。河内源氏の一流ではあるが、藤原姓を称した一族も多く、父も藤原姓を称した。盛経に関しては、養子とする説もあり、前述の義忠流の盛経と同一人物説もあるが定かではない。子とされる盛仲、盛光、盛親の名が義忠流の盛経の孫などにも見られることや活動時期が重なるために同説が唱えられているが、定着はしていない。
家族
祖父:源兼宗 従四位下、上野介または下野介。武芸に秀でた人物で『尊卑分脈』には「武芸達者」と記載あり。
祖母:肥後守藤原定任の娘。
伯父:源成宗 蔵人。別名、源成実。
父:源仲家 山城介。別名、藤原仲家。
叔父:源基宗 別名、藤原基宗。院の側近。
叔父:源仲実 蔵人。平忠盛の猶子。
叔母:武田義清の室。逸見清光の母。
兄:源家正 皇太后宮少進。
子:源盛仲 帯刀長。
子:源盛光 帯刀。
子:源盛親
孫:源親光 帯刀長。源盛光の子。
甥:源兼高
従兄弟:源経遠 従五位下。源成宗の子。
従兄弟:源宗成 源基宗の子。
従兄弟:源経清 源基宗の子。