溝口直温
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溝口 直温(みぞぐち なおあつ、享保元年[1]4月21日(1716年6月10日) - 安永9年9月4日(1780年10月1日))は江戸時代の大名。越後国新発田藩の第7代藩主。一族の旗本溝口直道の四男で、6代藩主溝口直治の養子。幼名は亀之助。通称は主膳。官位は従五位下。出雲守。母は実父・直道の側室で旗本永井監物家臣・高木宇左衛門の娘。正室は遠江浜松藩主・大河内松平信祝の娘・留姫(清涼院)。
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[編集] 経歴
享保元年(1716年)に生まれる。同17年(1732年)6代藩主・直治の末期(まつご)にあたって急養子となり本家の家督を継ぐ。この折には同じく分家である旗本逸見元長も養子の候補としてあがっていた。同年逸見元長に2000俵を加増したのは、そうした経緯への配慮とも考えられる。同年従五位下出雲守に叙任。同18年(1733年)江戸城堀浚いの手伝い普請を勤める。同20年(1735年)には幕府領紫雲寺潟新田の検地を命じられ、翌元文元年(1736年)にはこの検地で打ち出された1万6850石余を幕府より預けられる。同3年(1738年)には小阿賀野川の普請を幕府より命じられる。同5年(1740年)、先代以来数度にわたって預けられて来た幕府領の預かり地計8万3400石余を幕府に返上した。寛延元年(1748年)には神奈川宿において朝鮮使節の接待役を勤める。宝暦4年(1754年)には52か村1万石余が幕府に上知され、代地として33か村が下される。同6年(1756年)にも15か村が上知されて代地として31か村が下された。
宝暦11年(1761年)、直温は病身を理由に家督を長男・直養に譲り、隠居した。安永9年9月4日(1780年10月1日)、65歳で歿。法号は譚玄性空浄名院(浄名院殿前雲州大守譚玄性空大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。
[編集] 子女
直温には8男4女があった[2]。
- 長男亀次郎は側室の子のため当初世子とはされなかったが、のちに嫡子亀之助の廃嫡により世子となり、直温の隠居後8代藩主溝口直養となった。
- 次男丑之丞も側室の子であり、分家池之端溝口家の当主溝口直季の養子となり溝口直之と称した。
- 三男亀之助は正室の子としては長子であり当初世子とされたが、病身のため宝暦10(1760年)年に廃嫡。溝口直経と称し部屋住みのまま一生を送った。
- 四男幸之助は早世。
- 五男茂十郎も早世。
- 六男恵三郎は兄直養の養子となり溝口直信と称したが家督を継ぐ前に歿。
- 七男春三郎は常陸牛久藩主山口弘道の養子となり、山口弘務と称した。
- 八男徳三郎は家老堀主計の養子となったが早世した。
- 長女政姫は出羽松山藩主酒井忠休世子・酒井忠起正室。
- 次女民姫は長門長府藩主・毛利匡満正室。
- 三女吉姫は早世。
- 四女勝姫は下野壬生藩主鳥居忠意世子・鳥居忠求正室。
[編集] 治世
直温の治世は、はじめ前代に続く連年の水害の影響もあり、財政難が続いたが、その後一時水害も減って豊作が続き、家臣からの借り上げも停止された。しかし豊作が反面で米価下落をもたらしたことから財政状態は再び悪化し、ことに前代の阿賀野川改修で松ヶ崎掘割が本流となってしまったことに伴う諸工事をはじめとした負担も大きく、さらに再び大水害に襲われたこともあって、半知(知行の5割)借り上げという形で借り上げ制度が復活強化された。こうした財政難に対し、藩は藩士からの借り上げや有力農民・町人からの献納以外に有効な策を持たず、本格的な財政改革は次代に持ち越されることとなった。
[編集] 脚注
- ^ 『寛政重修諸家譜』では正徳4年生まれとするが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。
- ^ 以下の子女の記載・順序は上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では7男4女であり、順序などにも異同がある。またこれ以外にも早世した男子が居たとも伝えられる。
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