神戸中華同文学校
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神戸中華同文学校(こうべちゅうかどうぶんがっこう)は兵庫県神戸市中央区北野町山本通の西、諏訪山山麓付近に位置する日本の中華学校である。
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[編集] 概要
学校教育法上は学校法人神戸中華同文学校の設置する各種学校。中華同文学校は中華人民共和国系の学校だが、教育面では思想教育がなく、政治的には中庸である。同校は、華僑子弟のために1899年に神戸華僑同文学校として創立され、翌年の1900年に校舎が完成した。同校では、清朝から日本に亡命中であった清の政治家・梁啓超が神戸の地で華僑に、自国(中国)の言葉と文化を華僑子弟に伝えて行く必要性があると説き、華僑学校建設を促した年である1899年を、同校は創立年としている。1900年に神戸華僑同文学校が開校していたが、当時の清朝政府から目をつけられるのを恐れていたため、華僑の中で同校の校長になる者がいなかった。その為、神戸華僑から信頼の厚かった日本の政治家・犬養毅が名誉校長を務めた。同校は後に、神戸に点在していた華僑学校と合併を繰り返し、1939年に現在の神戸中華同文学校として統一された。神戸大空襲では校舎を焼失したため、1946年、当時の神戸市長中井一夫と神戸市による協力で神戸市立大開小学校を借りて、授業を復活させた。[1959年]]に新校舎が落成し、同年7月、学校法人資格を取得した。
[編集] 沿革
- 1899年5月 - 梁啓超が神戸の中華会館で、華僑学校設立を促す。
- 1900年3月 - 校舎落成。校名を神戸華僑同文学校と命名する。犬養毅が名誉校長就任。
- 1914年 - 広東語で授業を行うもう一つの華僑学校、神戸華強学校が設立される。
- 1919年 - 新たな華僑学校、中華学校設立。
- 1928年 - 神戸華強学校と中華学校が合併、名称を神阪中華公学とする。
- 1939年 - 神戸華僑同文学校と神阪中華公学が合併、名称が現在の神戸中華同文学校になる。
- 1945年6月 - 神戸大空襲で校舎を焼失。
- 1946年 - 神戸市立大開小学校を借り、授業を再開する。
- 1958年 - 兵庫県より学校法人資格の認可が下りる。
- 1959年9月 - 新校舎落成。
- 1962年 - 「学校通訊」創刊。64年より毎月発刊、現在に至る。
- 1969年 - 神戸北野町にある異人館、「風見鶏の館」を購入し、生徒寄宿舎を設立。
- 1974年 - 春季3月始業を4月に、二学期制より三学期制に改める。
- 1985年 - 新しく校歌を制定する。
- 1988年 - 寄宿舎を閉鎖。
- 1995年1月 - 阪神淡路大震災発生、避難所となる。
- 1998年 - 中学卒業旅行地を中国・北京に変更。パソコン教室を新設。
- 1999年 - 創立100周年記念行事開催。
- 2000年1月 - 福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)監督・王貞治来校。
- 2001年 - 体育館改装。
- 2002年 - 校舎の窓枠、扉を改装。
- 2004年5月 - 創立105周年記念慶祝会開催。10月、テレビ朝日が取材。
- 2005年 - 職員室及び保健室に冷暖房設備設置。「学校通訊」がカラーに。
[編集] 教育内容
同文学校は小1から中3まで中国語を徹底的に教え、社会、英語、算数、図工など日本語科の授業以外全て中国語で行う。小学部で使用されている教科書などは、全て中国語で明記されている独自のものを採用している。高校受験を控えている中学部は、日本が発行している教科書を採用し、テストなども日本語で行っているが、授業は中国語で行われている。また、中国語以外にも中国の文化、歴史、地理なども教えているため、他の公立学校よりも総合的に勉強時間が多く、土曜日も授業が行われている。
伝統的に規律には厳しく「打手板」を用いた体罰も実施されているが、それを承知で入学させたり、経験して卒業した保護者が大半であり、反対する意見は出ていない。また、このように規律に厳しい事も神戸中華同文学校の評価を高める一因となっている。
[編集] 国際性
神戸中華同文学校に華僑子弟のみならず、中国、台湾(中華民国)、日本、韓国、朝鮮、アメリカ、カナダ、イギリス、ポルトガル、インド、シンガポール、ベトナムなど12カ国の国籍を持つ生徒が通っている。教師も、中国や台湾だけではなく日本やカナダなどの国籍の教師が在籍している。最近では、日本人の入学希望者が増加している。しかし、華僑教育を重要視しているため、日本人が定員を超えると入学試験を行っている。なお、同校の43%は卒業生の子弟が通っている。同校は小中一貫教育で各学年に2クラスあり、630名の生徒が在籍している。また、同文学校は2001年から小学5・6年生を対象に英会話の授業を設置するなど、中国語以外にも力をいれている。2005年からは、小学4年生も英会話授業の対象となった。
[編集] 中国大陸との関係
1949年に中華人民共和国が中国大陸で成立した後、それまで大陸を統治していた中華民国・南京国民政府は台湾で台湾国民政府に再編成され、中国は大陸と台湾に分裂する。それにより、横浜の中華学校では中国大陸派と台湾派に分かれた。しかし、神戸中華同文学校は中国大陸寄りで押し切り、分裂はまぬがれた。その後も政治教育がないため、台湾人子弟も通い続けている。1960年代後半から1970年代後半まで中国大陸で、毛沢東が指揮し大陸で何百万人もの人が殺戮されたプロレタリア文化大革命でも毛沢東語録が生徒達に配布されなかった。その為、中国大陸では名指しで同校の校長が批判された。文革終了後は大陸の政府関係者などが同校を訪問したりするなど、交流を深めている。なお、中華人民共和国政府でも、同校の卒業生が活躍している。
[編集] 台湾との関係
神戸中華同文学校は大陸寄りなので、台湾(中華民国)政府との交流はないが、1972年の日中国交正常化まで、同校では中華民国の国旗である青天白日満地紅旗が掲げられていた。現在は学校行事などで中国の五星紅旗が掲げられている。1959年に同校の新校舎を建設する際、社会主義教育を恐れた当時の台湾政府が、中華民国総領事館などを通して様々な妨害があったため、新校舎建設は難航していた。当初、同校ではプール施設を設ける予定であったが、立ち消えになってしまった。同校では、大陸よりの姿勢をとっているため、中国地理では台湾を中国の一部として教えているが、生徒の思想は尊重している。台湾人子弟も同校に数多く在籍しているが、彼らの親類には同校に登校させるのを拒む者もいる。
[編集] 日本人入学志願者の増加
最近、日本人の入学希望者が増加している。これは、中国や台湾の経済発展に伴い、将来に備えて幼少のころより中国語で教育を受けさせる利点の増大や、優秀な上位校に進学した卒業生も多く、教育水準の高い学校とみなされている、国際性が身につく、また「ゆとり」教育を標榜する現在の日本の教育体制への不満を感じる保護者の増加などを背景としている。また、他の国際学校に比べて学費が安いのも人気の理由となっている。しかし、華僑教育を重要視しているため、華僑子弟や卒業生子弟が優先的に入学でき、日本人子弟は入学予定人数を超えると募集されなかったり、募集されても入学試験が実施されるため、非常に狭き門となっている。神戸中華同文学校は学校教育法上、「各種学校」扱いで、かつては進学で不利になる場合もあったが、現在は改善され兵庫県や大阪府の高等学校に進学する場合は、普通中学校卒業と同じように問題なく進学できる。また、全国中学校体育連盟にも加盟し、運動部が兵庫県大会に出場を果たしている。ただし、いまだに教育補助金等において、他の私立校に比べて不公平な扱いをうけており、入学志願者増加に対応しての校舎の増築や改築ができず、入学志願者増加にも関わらず入学定員を増やせない大きな原因となっている。
[編集] 同文学校生の飛躍
神戸中華同文学校の卒業生は、日本のみならず世界でも活躍している。日中国交正常化交渉の際、日本政府と毛沢東との通訳を担当し、全人代常務委員までに上り詰めた同文卒業生もいる。また、芸能関係者も輩出している。その中で一番知名度が高いのは、元宝塚歌劇団星組トップスター(「ベルばら四強」の一人)でミュージカル女優の鳳蘭である。
また、同校卒業生は卒業後も同校との結びつきが強く、教師に近況報告をするなどして母校を訪ねる卒業生も多い。また同校の卒業生の中には、同文学校の教師を目指す人も多い。校長をはじめ、同校教師の大多数は同文出身者である。
[編集] 校舎建設秘話
1945年6月5日の神戸大空襲で、同校の校舎は焼失。戦後、神戸市立大開小学校の校舎を神戸市から借り、戦争で破損した部分を修理しながら授業を再開した。しかし、徐々に神戸市の子供人口が増加し、同校は校の返還を迫られ、神戸中華同文学校新校舎建設計画が持ち上がった。1958年より、同校生徒をはじめ、在神華僑が「有銭出銭、有力出力」の号令と共に、新校舎建設への募金が進んだ。1959年9月に新校舎が落成し、現在も部分的に改修を進めながら、半世紀近く校舎を使い続けている。
[編集] 同文学校卒業生・関係者
[編集] 関連項目
[編集] 所在地
〒650-0004 兵庫県神戸市中央区中山手通6丁目9番1号