阪神国道線
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国道線(こくどうせん)は、かつて大阪市の野田から神戸市の東神戸までを結んでいた阪神電気鉄道運営の路面電車。
同じく阪神電気鉄道が運営した甲子園線(こうしえんせん、上甲子園~浜甲子園間、他に浜甲子園~中津浜(なかつのはま)間)と歴史的に連動し、広義では同線も含めて国道線と称したので、甲子園線についてもここで述べる。
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[編集] 路線データ
- 路線距離(営業キロ):
- 国道線:野田~東神戸間 26.0km
- 甲子園線:上甲子園~浜甲子園間 3.0km、浜甲子園~中津浜間 0.8km
- 軌間:1435mm
- 駅数:(起終点駅含む)
- 国道線:46駅
- 甲子園線:9駅
- 複線区間:
- 国道線:全線複線
- 甲子園線:全線複線
- 電化区間:全線電化(直流600V)
[編集] 概要
[編集] 国道線
阪神間を結ぶ日本初の都市間高速鉄道(インターバン)として阪神本線を1905年に開業した阪神電鉄は、大正末期の阪神国道(現・国道2号)建設計画に伴い、同道路上を他社の軌道が走ることへの予防措置として、自らの手で国道上に軌道を運営することにした。1925年に子会社の阪神国道電軌を設立、わずか半年の突貫工事で1926年に野田~東神戸間26.0kmを開業。1928年には阪神本社が阪神国道電軌を吸収し、直営の国道線とした。
1950年代に、沿線の人口増加や工業化により最盛期を迎えたが、やがてモータリゼーションの影響を蒙り、表定速度低下と乗客減に悩まされた。結局、1969年、1974年と神戸側の区間廃止を経て、1975年5月、甲子園線及び同じく軌道線だった北大阪線と共に姿を消した。
[編集] 甲子園線
国道線開通のちょうど1年前(1926年)、阪神が開発した郊外住宅地である甲子園への足として、まず甲子園~浜甲子園が開業。国道線開通、続く国道線直営化を受けて、1928年6月に上甲子園まで延長、国道線と連絡した。続く1930年、浜甲子園から更に海岸部の中津浜まで延長したが、この区間は太平洋戦争末期に休止となり、後に廃止された。
国道線、及び阪神本線の支線としての役割を担い、また戦後に浜甲子園団地が開発され「団地を走る軌道」との個性を見せていた。乗客数も多く、団地住民の足としての役割を果たしていたが、国道線の廃止により浜田車庫への出入庫が出来なくなるために廃線の方針が出された。当然ながら、住民からの廃止反対の声が上がったものの、結局は1975年(昭和50年)5月の国道線全廃と共に廃線となった。国道線との直通は、海水浴シーズンにわずかに行われたのみで普段は無く、基本は上甲子園以南の折返し運転だった。
廃線後も、浜甲子園駅は1980年代前半まで(当然立入禁止だったが)架線が撤去された程度で駅舎、プラットホーム、線路がそのまま残されていた。取り壊された現在でも、旧浜甲子園駅は空地のまま残されており、金網越しにホーム部分の線路が辛うじて確認出来る。
[編集] 特徴
国道線は、一本の軌道路線としては日本最長の路線だった。野田~東神戸間で約2時間を要するため、通しで乗る人はまず居らず、阪神本線の補完的路線であった。但し、国道2号が国鉄(東海道本線)寄りを走っていたためか、両端部の野田、西灘と甲子園線甲子園を除いて本線との連絡は良くなかった。
塗色は、現在の阪神赤胴車(クリームと朱色)のそれをややくすませたような、ベージュと小豆色の2色塗りであった。車輌では、側面窓がボディーの半分以上に及ぶ姿から「金魚鉢」と親しまれた71形などが有名。性能面でも、路面電車のそれとは一線を画した高性能のものであった。
脇浜町(現在の阪神電鉄バス・脇浜三丁目停留所付近)にあった国道線西端の東神戸では、1935年に延長してきた神戸市電と連絡しており(神戸市電の電停名は脇浜町)、レールもつながっていたが、直通は花電車など、記念列車的なものに限られていた。一方、東端の野田では北大阪線と接続していたが、これも直通は無かった。また大阪市電とは阪神本線を隔てており、繋がっていなかった。
プラットホーム設置は野田(乗車ホームのみ)、甲子園、浜甲子園、および路線短縮後の西灘の3駅のみで、それ以外の電停には安全地帯も無く、路上から直接乗降した。車輌は停車と同時にステップが下りてくる仕掛になっていた(戦前は安全地帯が各停留所にあったが、戦時中に道路を臨時の飛行場として使用を考えた軍部の要請により撤去されたまま、復活しなかったとされる)。
車庫と工場は浜田にあった。浜田車庫は阪神電鉄バス車庫・自動車部本部のほか、阪神タイガース二軍用の浜田球場に転用された(タイガース二軍は現在は阪神鳴尾浜球場に移転したが、浜田球場は残されている)。また、野田には留置線があり、北大阪線用の車両が留置されていた。
現在、国道線・甲子園線のルートは、阪神直営の阪神電鉄バスが引き継いで走っている。系統は大阪ローカル線(野田阪神前~阪神甲子園、ただし西宮市内の国道を外れた区間の経路が電車とは異なる)、尼崎神戸線(阪神尼崎~神戸税関前)などに分断されている。
1990年代に入って、国道2号線の改修工事及び共同溝設置工事が行われた際、中央分離帯付近のアスファルトを剥がしたその下から、線路が"出没"した。懐かしさから話題となり、新聞にも取り上げられたが、共同溝が設置された区間では線路が撤去され、それ以外の区間でも、次第に線路が撤去されてゆくものと考えられる。
[編集] 沿革
- 1926年(大正15年)7月1日 甲子園線 甲子園~浜甲子園間開業。
- 1927年(昭和2年)7月1日 阪神国道電軌 西野田(後に野田)~神戸東口(後に東神戸)間開業。
- 1928年(昭和3年)4月1日 阪神国道電軌を合併、国道線とする。
- 1928年(昭和3年)6月25日 甲子園線 上甲子園~甲子園間開業。
- 1930年(昭和5年)7月9日 甲子園線 浜甲子園~中津浜間開業。
- 1945年(昭和20年)1月6日 甲子園線 浜甲子園~中津ノ浜間休止(再開されず)。
- 1969年(昭和44年)12月14日 国道線の西灘~東神戸間0.6kmを廃止。
- 1973年(昭和48年)9月26日 甲子園線 浜甲子園~中津浜間廃止。
- 1974年(昭和49年)3月17日 国道線の上甲子園~西灘間を廃止。
- 1975年(昭和50年)5月6日 国道線・甲子園線廃止。
[編集] 停留所一覧
[編集] 国道線
野田* - 中海老江 - 野里 - 歌島橋 - 御幣橋* - 佃 - 左門殿橋 - 北杭瀬 - 東長州 - 大物北口 - 県立尼崎高等学校前* - 尼崎玉江橋 - 東難波 - 難波 - 西難波 - 浜田車庫前 - 東大島 - 西大島 - 武庫大橋 - 上甲子園 - 瓦木 - 津門 - 北今津 - 西宮駅前 - 西宮札場筋 - 西宮戎 - 西宮西口* - 森具 - 山打出 - 芦屋駅前 - 芦屋川 - 森市場前 - 森 - 小路 - 田中 - 甲南学園前* - 灘高等学校前* - 住吉駅前 - 中御影* - 上石屋 - 徳井 - 八幡 - 六甲口 - 大石川 - 西灘 - 東神戸*
[編集] 甲子園線
上甲子園 - 甲子園三番町 - 甲子園五番町* - 甲子園 - 阪神パーク前* - 甲子園九番町 - 浜甲子園 - 高砂 - 中津浜
*は、改称を経た駅名。
[編集] 保存車輌
71形のうち71号と74号が、尼崎市内の公園に静態保存されている。車内は集会場や物置となり、周囲には金網があるものの、簡単ながら屋根もかけられており、保存状態は比較的良い。塗装の塗り直しなども、時折行われている模様である。但し現在の塗装は、現役時代のものより薄い色合いとなっている。
- 71形 71号 水明公園(尼崎市水明町)
- 71形 74号 蓬川公園(尼崎市崇徳院3丁目)
このほか、79号が伊丹市に保存されていたが、現在は撤去(移転)されている。また、かつては甲子園阪神パークにも、1形27号(表記は「1」となっていた)と200形215号が保存されていたが、いずれもパークの閉鎖より前に撤去されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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