高崎一郎
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高崎 一郎(たかさき いちろう、本名:ジョニー 高崎/ジョニー たかさき、男性、1931年5月13日 - )は、司会者。元ニッポン放送プロデューサー・パーソナリティ。現三越顧問。血液型はB型。
イギリス・ロンドン市オックスフォード出身。アメリカ南カリフォルニア大学卒業。
[編集] 来歴
日本大使館員であった父の赴任先であるロンドンで生まれる。多忙の両親に代わってイギリス人のメイドに育てられたため、幼少の頃は日本語がほとんど話せなかった。
小学校3年生の時、第2次世界大戦が開戦したため、父はイギリスから引き揚げ、高崎は初めて日本の地を踏む。言葉が通じないため、当初は級友のいじめを受けるが、3ヶ月で日本語をマスターし、克服する。
中学校時代は、その本名と「英語ができる」などの理由から、軍事教練の教官から「二世だ」「スパイだ」などと誤解され罵られ、往復ビンタなどの体罰を受けることもあった。一方、級友と共に荻窪の飛行機工場で旋盤工として働かされたときは、アメリカ人捕虜の通訳役をすることもあった。
第2次世界大戦終戦後、父は戦犯として巣鴨拘置所に収容され、死亡。それまで裕福だった高崎家の財産は没収され、一家は離散する。英語に堪能な高崎は、進駐軍の将校に拾われ、高校卒業までハウスボーイをしながら学校に通った。
大学に進学すると、生活費と学費を稼ぐため、進駐軍の通訳としてアルバイトするようになる。その後、アメリカに留学し、南カリフォルニア大学で近代アメリカ文学を専攻する。大学卒業後、ニューオーリンズでデキシーランド・ジャズを、ニューヨークで放送ビジネスを学び、本場のディスクジョッキースタイルを体得した。
帰国後、黎明期のニッポン放送にプロデューサーとして入社。番組の総括をする傍ら、当時の共産圏諸国以外の多くの国を取材して回った。1960年からディスクジョッキーとしてマイクの前に立つようになるが、「DJ」という概念が日本で理解されていなかった当時は、現場のアナウンサーを中心に風当たりが強かったという。しかし、NHKのアナウンサーと音楽評論家にモニターを頼み、常に批評を受けながら努力した結果、持ち前の音楽知識と海外生活の経験を生かした独自のスマートな語り口を確立した。これが上司の理解と聴取者の大いなる支持を集め、高崎はラジオのしゃべり手として、当時の日本の放送界をリードする存在となる。
そして、深夜ラジオ番組の草分けである『オールナイトニッポン』の初代パーソナリティとなり、「奥様、お嬢様が泣いて喜ぶ高崎一郎」などの名文句で人気を博した。
オールナイトニッポンのテーマソングとして有名な楽曲『BITTERSWEET SAMBA』については、彼の担当日が放送初日であり、スタッフが本来はA面の曲(ティファナ・タクシー)をテーマ曲としてかける筈が、間違えてB面の曲をかけてしまった。しかし、高崎が「この曲のほうがよいのでは」と強く推薦したために、以降テーマソングはこの曲に変更されたという逸話がある。
ニッポン放送の前社長・亀渕昭信は、学生時代に高崎の家でレコード整理等のアルバイトをしていて、働きぶりが非常に良かったため、卒業時に高崎の強い推薦でニッポン放送に入社した。
当時のニッポン放送社長・石田達郎に対し、カセットテープの普及に伴い音楽テープを中心とした音楽産業が必ず伸長すると吹き込み、音楽産業への進出を強く進言。フジパシフィック音楽出版、ポニーキャニオンの発足に繋がる。
放送媒体を利用した通信販売に着目し、1970年10月1日にフジテレビにて実験番組・「東京ホームジョッキー」(翌年に系列局へのネットに伴い「リビング4」に改題<1975年に更に放送時間移動に伴い「リビング2」に改題>)を開始。フジサンケイグループのリビング路線(サンケイリビング新聞・ディノス・ESSE)への基盤を築く。現在の三越顧問の職は、日本において放送メディアを活用した通信販売を世に広めた功績を買われたものである。
フリーに転向後、「リビング2」「リビング4」の流れを汲むと思われるテレビ東京「レディス4」のメインキャスターを長年務めたが、体調不良を理由に2003年2月28日放送分をもって、惜しまれつつ降板した。
[編集] 出演番組
- 高崎一郎のオールナイトニッポン (1967年10月~1968年8月、ニッポン放送)
- オールナイトフジ (1969年~1975年、フジテレビ)
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