高村正彦
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高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年3月15日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員。徳山市長、衆議院議員をつとめた高村坂彦の四男。趣味は学生時代から行っている少林寺拳法(四段)で少林寺拳法振興議員連盟会長を勤める。
生年月日 | 1942年3月15日 |
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出生地 | 山口県周南市 |
出身校 | 中央大学法学部 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 弁護士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
元・経済企画庁長官(村山内閣) 元・外務大臣(小渕内閣) 元・法務大臣(第2次森改造内閣) |
世襲の有無 | 二世 父・高村坂彦 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
山口1区 |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(高村派) |
党役職(現在) | 税制調査会副会長 |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館226号室 |
ウェブサイト | 高村正彦ウェブサイト |
[編集] 経歴
- 東京都立立川高等学校を経て、1965年、中央大学法学部を卒業し、司法修習20期で江田五月、横路孝弘、神崎武法の各氏と同期で1968年に弁護士となる。
- 引退した父の跡を継いで、1980年に第36回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。以後、9回連続当選。 防衛政務次官・大蔵政務次官・自民党国防部会長などを歴任。早くから河本敏夫率いる新政策研究会の次代を担う存在として注目されるようになる。
- 1994年、村山富市内閣で経済企画庁長官 として初入閣。1996年には橋本龍太郎内閣で閣僚経験者ながら、異例の外務政務次官に就任する。ペルー日本大使公邸人質事件で奔走し、1998年、小渕恵三内閣で外務大臣に就任。ガイドライン関連法成立に努力し国会答弁では、「スーパー政府委員」の異名を取った。
- 外相時代の評価は高い。北朝鮮問題でも「拉致問題解決なくしてコメ支援なし」の原則を公言していた。当時は、村山富市や加藤紘一ら、北朝鮮に宥和的な政治家が対朝外交の主導権を握っていて、活発な議員外交が繰り広げられていた。
- 2000年には森喜朗内閣で法務大臣に就任し、立て続けに閣僚を歴任してニューリーダーとして頭角を現す。また、新政策研究会が名称変更した番町政策研究所の会長となった。山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎らの「YKK」に、森喜郎を含めてのMYKK、またはYKKに近い存在だった高村を加えてのMY3Kと称されることもあった
- 小泉純一郎首相の後継をうかがい、古賀誠、麻生太郎、平沼赳夫らと共に「士志の会」を結成した。
- 2003年の自由民主党総裁選挙に立候補し、54票を獲得したが、小泉首相の経済政策を批判したため、無役に封じ込められた形になった。小泉からは、「士志の会」は「中二階」として改革意識が足りないと批判されている。
- ポスト森、ポスト小泉と次期総理の呼び声がかかったこともあったが、華があるとは言い難い地味さや、郵政民営化法案に棄権したこと、同郷の安倍晋三に先を越されたことなどから、後継者レースからは脱落した感が強い。
- 2006年の総裁選では安倍晋三を派閥をあげて支持~見返りに入閣適齢期の山本有二・赤城徳彦の初入閣を求めたが、結局山本しか入閣できなかった。
[編集] 政歴
- 1980年
- 6月22日 第36回衆議院議員総選挙(旧山口2区・自民党公認)1期目当選。
- 1983年
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙(旧山口2区・自民党公認)2期目当選。
- 1986年
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧山口2区・自民党公認)3期目当選。
- 1990年
- 1月24日 第39回衆議院議員総選挙(旧山口2区・自民党公認)4期目当選。
- 1993年
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧山口2区・自民党公認)5期目当選。
- 1994年
- 1996年
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(山口1区・自民党公認)6期目当選。
- 1998年
- 2000年
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(山口1区・自民党公認)7期目当選。
- 7月4日 法務大臣就任。
- 2003年
- 9月20日 自由民主党総裁選挙に出馬
- 11月9日 第43回衆議院議員総選挙(山口1区・自民党公認)8期目当選。
- 2005年
- 9月11日 第44回衆議院議員総選挙(山口1区・自民党公認)9期目当選。
[編集] 関連項目
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