アウステルリッツの戦い
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アウステルリッツの戦い | |
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![]() アウステルリッツの戦いのナポレオン François Pascal Simon, Baron Gérard. 右側の白馬の馬上がナポレオン、左側の白馬の馬上がアレクサンドル1世。現実にはありえない光景を描いたもの |
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戦争: オーストリア戦役 (1805年)(ナポレオン戦争) | |
年月日: 1805年12月2日 | |
場所: チェコのブルノ近郊 | |
結果: フランス軍の圧倒的勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス軍 | オーストリア・ロシア連合軍 |
指揮官 | |
ナポレオン1世 | フランツ2世 アレクサンドル1世 クトゥーゾフ |
戦力 | |
73,000 | 87,000 |
損害 | |
死傷者 10,000 | 死傷者 30,000 |
アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい, 英:Battle of Austerlitz, 仏:Bataille d'Austerlitz, 独:Schlacht von Austerlitz, 1805年12月2日)は、オーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン率いるフランス軍(大陸軍)が、オーストリア・ロシア連合軍を破った戦いである。
ナポレオンの勝利は後に芸術とも評された見事な勝利であり、ナポレオン戦争の中で最も輝かしいものであった。
フランス帝国皇帝ナポレオン1世、神聖ローマ帝国(公式にオーストリア帝国となるのは1806年以降)皇帝フランツ2世、ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん, 英:Battle of the Three Emperors, 独:Dreikaiserschlacht)とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。
目次 |
[編集] 背景
1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ2世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。
ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にオーストリア・ロシア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。
[編集] 経過
ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、オーストリア・ロシア連合軍8万7,000は、アウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。
フランス軍は7万3,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。
だが、これこそがナポレオンの罠であった。ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にスルトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる親衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。
中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。連合軍は氷結した湖を通って退却しようとしたが、フランス軍の大砲が湖の氷を割ったため、将兵の多数が溺死した。他の連合軍部隊にもランヌの第5軍団とミュラの騎兵軍団が襲い掛かった。夕刻までに、連合軍は30,000以上の死傷者を出し、散り散りになって敗走した。
[編集] 戦後処理
12月4日、フランツ2世はフランス軍へ降伏した。アレクサンドル1世は無残な姿でロシアへ逃げ帰った。
12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。
[編集] 戦いの後のナポレオンによる演説
兵士たちよ、私は諸君に満足している。
諸君は、アウステルリッツの戦いにおいて、私が諸君の勇敢にかけた期待を裏切らなかった。諸君は諸君の軍旗を不滅の栄光によって飾った。ロシア皇帝とオーストリア皇帝の指揮する十万の軍は、四時間足らずして、分断され四散させられた。諸君の砲火を免れた者も湖に溺れて死んだ。ロシアの親衛隊の四十本の軍旗、百二十門の大砲、二十人の将軍、三万以上の捕虜が、永久に栄光に輝くこの日の戦果である。諸君にはもはや恐れるべき敵はいない。
兵士たちよ、我々の祖国の幸福と繁栄のために必要なことがなされたときには、私は諸君をフランスへ帰すであろう。国民は諸君の帰還を喜ぶであろう。そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。
[編集] 参考文献
- O.オブリ(編), 『ナポレオン言行録』, 岩波文庫, ISBN 4003343514
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