モラヴィア
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モラヴィア(チェコ語でモラヴァ Morava, ドイツ語でメーレン Mähren)はチェコ共和国の東部の名称。西部はボヘミア(ベーメン)という。歴史的な中心地はブルノ。
地名はモラヴァ川に由来する。古代にスラヴ民族の王国の名称となり定着した。この地方のチェコ語の方言を話す人々をモラヴィア人(Mähren (Volk))といい、チェコ人の下位の民族集団ともとらえられる。
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[編集] 地誌
チェコの住民と地方は文化(主な特徴は言語、民俗衣装など)によって幾つかに区分されるが、チェコ共和国東北部のシレジアは普通モラヴィアには含まれない。モラヴィアの中にもラキア(Lachia, Lašsko)、ワラキア(Wallachei, Valachia, Valašsko)、ハナ(Hana)、スロヴァキア(Slovácko)といった地方名がある。
地図参照;序章-チェコの音楽と歴史
[編集] 主な都市と世界遺産
- イフラヴァ(イグラウ)
- ヴァルチツェ
- オロモウツ(オルミュッツ) (オロモウツ European Quartet - One Melody)
- ズノイモ(ツナイム)
- スラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)
- ブジェツラフ
- ミクロフ(ニコルスブルク)
- ブルノ(ブリュン)
- プロスチェヨフ(プロスニッツ)
- レドニツェ
- テルチ
- クロムニェジーシュ(クレムジール)
[編集] 歴史
9世紀から10世紀にかけてスラヴ系民族が大モラヴィア王国を築く。東フランク王国と対立を繰り返しつつ、ビザンティン帝国から東方正教会と|文化を受け入れた。「スラヴの使徒」キュリロスとメトディオスが布教を行ったのも、このモラヴィア王国である。
しかし王国内部からの分裂によって、東フランク王国に屈服を許し、カトリックを受け入れることとなった。その後、モラヴィア王国は内部分裂し、弱体化した。10世紀に入ると東欧から侵入したマジャル人に征服され、王国は滅亡する。それ以降、マジャル人の建国したハンガリー王国に従属し、さらにハンガリーの王冠がオーストリアのハプスブルク家に渡るとその支配下に置かれた。この従属は20世紀まで続く。この過程でモラヴィアのスラヴ人は、ボヘミア人(チェック人)とほぼ同化され、チェコと同一化された。オーストリアとハンガリーに支配されたモラヴィアは、千年の桎梏と呼ばれるくびきを経て、1918年にチェコスロヴァキアとして、独立を果たした。共産化、冷戦を経て、1992年にチェコとスロヴァキアに分離すると、モラヴィアはチェコの一部として留まることとなった。
[編集] 文化
ハンガリー文化の影響を受けており、特にワラキア(Valašsko, Wallachei, Valachia - 「モラヴィアのワラキア」とも)地方はハンガリー的な音楽で有名である。またモラヴィア独特の方言もこの地方の音楽に影響を与えている。これらの独特の要素はレオシュ・ヤナーチェクらによって研究されている。
[編集] 人物誌
[編集] 歴代総督
[編集] 有名な出身者(→チェコ人一覧)
- グイード・アードラー - 音楽学者。ユダヤ系。
- カウニッツ家
- クルト・ゲーデル
- ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス、ヨハン・アモス・コメニウス)
- エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト - 作曲家。ユダヤ系。
- ヨーゼフ・シュンペーター(ジョーゼフ・A・シュンペーター) - 経済学者。
- レオ・ファル - 作曲家。ユダヤ系。
- エドムント・フッサール - 哲学者。ユダヤ系。
- ジギスムント・シュローモ・フロイト(後改名しジークムント・フロイト) - 精神分析学創始者の精神医学者。ユダヤ系。
- エルンスト・マッハ - 哲学者、物理学者。
- アルフォンス・ムハ(フランス語名アルフォンス・ミュシャ)- アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー
- グレゴール・ヨハン・メンデル
- レオシュ・ヤナーチェク - 作曲家。
- ヨーゼフ・ラデツキー伯爵。
- アドルフ・ロース - 建築家。ユダヤ系。
- フランティシェク・パラツキー-政治家。歴史家。
[編集] 在外
- ブルーノ・クライスキー - 政治家。ユダヤ系。
- カール・レンナー - 政治家。ユダヤ系。
[編集] 関連項目、外部リンク、参考資料
チェコの現在の行政区画と伝統的行政区画 | ||
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