アレクサンダー・ハミルトン
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アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755年1月11日 - 1804年7月12日)は、アメリカの弁護士であり、ジャーナリストであり、政治家である。『ザ・フェデラリスト』の主要執筆者。「建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)」の一人。 アメリカ合衆国、初代財務長官である。
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[編集] 生い立ちと初期の経歴
英領西インド諸島のネイビス島に生まれる。父はスコットランド貴族出身の商人、母はフランスのユグノーの子孫という。1768年に兄とともに孤児となり、ニューヨーク商人のクルーガーとビークマン所有のセント・クロイ島にある店で働きはじめ、4年後には店主に代わって店を任されることもあり、その経営能力は高く評価されていた。1771年にセント・クロイ島で発行されている新聞に自作の詩を掲載され、文才の片鱗を示す。その翌年に、ハリケーン来襲を報じた手紙が新聞記者に優れた文章として認められ、《ザ・ロイヤル・ダニッシュ・アメリカン・ガゼット》誌に掲載された。店主と親類縁者の援助により、1773年よりニューヨーク市のキングズカレッジ(現コロンビア大学)に入学し、行政学・政治学を学ぶかたわら、歴史・文学・政治哲学などの広い分野にわたる読書を始めた。
1774年サミュエル・シーバリーの大陸会議非難を反駁した論文《大陸会議の措置に関する敵の中傷に対し、その措置を全面的に擁護す》を公刊。これは独立革命に関してハミルトンが執筆した最初の公的文書である。1775年2月、さらに大陸会議を擁護し、愛国派の見解を表明した《その農民の見解を論駁す》を公刊。同年6月、《ケベック法に関する所見》を発表し、イギリス本国が植民地支配を強めるためにカナダのカトリック教徒を利用する計画があることを批判。10月、大衆の印刷業者への暴行を非難。
1776年3月14日、ニューヨーク植民地砲兵中隊を指揮する大尉に任命され、独立戦争に従軍、幾多の会戦に参加して軍人としても優れた才能を発揮した。1777年からワシントン総司令官の副官に任命され、中佐として軍務に奔走するかたわら、ヒューム、ホッブズなどの読書と研究に努めた。1778年に《プブリウス書簡》を新聞紙上に発表し、軍需品納入をめぐる不正事件を摘発し、大陸会議の欠陥もあわせて批判する。1779年12月から翌年の3月にかけて、独立運動の指導者に書簡をおくり、その中ですでに合衆国銀行設立の構想を立てている。1781年7月12日から4回にわたって連載された論文《大陸主義者》では、強力な中央政府樹立の必要を説いた。10月14日にヨークタウン陥落の陣頭指揮をとり、10番堡塁をおとし勝利している。
軍務を解かれ1782年から弁護士開業を目指し、ブラックストーン、グロティウス、プッフェンドルフについて勉強する。4月18日から新聞掲載された《大陸主義者》の続編で、通商規制の必要を説く。7月22日にニューヨーク邦大陸会議議員に選出され、そこで大陸会議の課税権強化を提唱。1784年1月からの《フォーションからの書簡》で、ニューヨーク邦におけるイギリス忠誠派への不当な処置を批判した。1786年ニューヨーク邦議会により、アナポリス会議の委員に選出され、フィラデルフィアに新しい議会を開催するよう各邦に要望した声明文を起草。1787年3月ニューヨーク邦議会により憲法制定会議への代表として派遣され、9月17日に自身の憲法の草稿を作成し、ついで憲法草案に署名をする。10月27日からジェームズ・マディスン、ジョン・ジェイと協力して翌年5月28日までに《ザ・フェデラリスト》論文を執筆して、合衆国憲法批准を促進した。1789年9月11日、ワシントン内閣の財務長官に任命される。
1790年から1791年までにハミルトンによって連邦議会に提出された報告書は、《公信用》《未占有地》《蒸留酒税》《国立銀行》《貨幣鋳造所設立》《製造業》と実に多種多様。一方「マリア・レイノルズ事件」で不倫が暴露されたり、公債操作による不当利益獲得の疑惑が取りざたされ、ジェファーソンをはじめとする政敵との確執が強まる。1794年「ウィスキー一揆」鎮圧のため1万2千の軍隊でピッツバーグに進軍して、一挙に制圧。イギリスとの妥協の一環として1795年に結ばれたジェイ条約の正当性を《カミュラス》論文で擁護し、連邦議会に批准させた。この年に財務長官を辞任している。1798年から陸軍検閲総監として、新しく編成された連邦軍の軍制・兵制確立を遂行。1803年には弁護士としての名声は最高潮に達した。
[編集] マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立
ハミルトンは1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、政治的ダメージを受けることとなる。レイノルズの夫ジェームズはハミルトンとマリアとの性的関係を認めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝し金銭を要求した。ジェームズ・レイノルズは偽造の罪で逮捕されたとき、ジェームズ・モンローを始めとする数名のリパブリカン党員と連絡を取った。彼らはハミルトンの元を訪れマリアとの関係を問いただしたが、ハミルトンは関係を認めながらも無罪であることを強調した。モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるモンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バーによって避けられた。
皮肉にもバーは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでハミルトンを元気づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。バーが1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・シェイラーを破ったとき、ハミルトンはバーを陥れるための秘密工作を始めた。
ハミルトンの1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。弁護士業の再開でハミルトンは政界に対してアドバイザーおよび友人として関係を保っていた。ハミルトンはワシントンの退任演説に影響を及ぼしていたと考えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。連邦党の大統領候補としてアダムズの指名を妨げようとするハミルトンの工作は党を分割し、1800年の大統領選でジェファーソン派のリパブリカン党員の勝利に寄与した。
ジェファーソンの大統領就任後、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃だった。バーは1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたバーはハミルトンに対して謝罪を要求した。ハミルトンはバーが新聞の言及した事実を証明できなかったとして要求を拒絶した。
バーとハミルトンの決闘は、三年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で1804年7月11日に行われることとなった。ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ・チャーチヤード墓地に埋葬された。バーはハミルトンに対する殺人とその後の反逆裁判でニューヨークから逃亡した。バーはその財産を乱費し1807年の共謀で非難され、1836年に死去した。
[編集] ハミルトンと現代政治
独立後のアメリカ合衆国憲法の制定・中央政府の強化に果たしたハミルトンの業績は、余人をもって代え難い。保護貿易政策や合衆国銀行の必要を訴えたことに見られるような内政・外交における先見性と優れた文筆は、ジェファーソン、アダムズと才能に恵まれた初期の合衆国政府の中でも特に有力な政策立案者とした。商工業者の利益を代表し、大地主と独立自営農民とは対立する政治姿勢をとっていたにもかかわらず、1801年の大統領選挙では、ハミルトンの指導する連邦党にとって最大の敵と見られたジェファーソンを支持し、対立候補であったアーロン・バーを忌避するといった挙にでている。これはジェファーソンが大統領となった後には、今まで自分が攻撃していた制度を逆に保持するであろう、との見解による。これほどの明察をもちながら、ハミルトンの性格は貴族的で倨傲、ジェファーソンよりも妥協に向いていなかったために独立戦争中はワシントンとも衝突し、たびたび人身攻撃の的となり、最後はアーロン・バーの恨みを買うこととなった。
彼が大部分関与し、共和国政治の説明として最良の著作と認められる『ザ・フェデラリスト The Federalist』と、政府への報告『製造業に関する報告書 Report of Manufacture』は邦訳されている。
[編集] 著書
- Federalist Papers - アレクザンダー・ハミルトン (52編)、ジェームズ・マディスン (28編)、ジョン・ジェイ (5編)
- Hamilton: Writings - アレクザンダー・ハミルトン (2001年, ISBN 1931082049)
- 『アレグザンダー・ハミルトン 製造業に関する報告書』 アレグザンダー ハミルトン (著), 田島 恵児, 松野尾 裕, 浜 文章 ,(翻訳)
[編集] 伝記
- Alexander Hamilton: A Biography by Forrest McDonald (1979年, ISBN 039330048X)
- Alexander Hamilton, American by Richard Brookhiser (1999年, ISBN 0684839199)
- Alexander Hamilton: A Life by Willard Sterne Randall (2003年, ISBN 0060195495)
- ロン・チャーナウ『アレグザンダー・ハミルトン伝~アメリカを近代国家につくり上げた天才政治家』
(2005年,日経BP社 ISBN 4822244733、ISBN 4822244741、ISBN 482224475X)
- The Young Hamilton: A Biography by James Thomas Flexner (1997年, ISBN 0823217906)
- Alexander Hamilton and the Persistence of Myth by Stephen F. Knott (2002年, ISBN 0700611576)
- Duel: Alexander Hamilton, Aaron Burr, and the Future of America by Thomas Fleming (2000年, ISBN 0465017371)
[編集] 外部リンク
- U.S. Treasury - Biography of Secretary Alexander Hamilton
- Hamilton's Congressional biography
- The New York Historical Society's Alexander Hamilton Exhibit
- Alexander Hamilton: Debate over a National Bank (1791年2月23日)
官職 | ||
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先代: - |
アメリカ合衆国財務長官 1789年9月11日 - 1795年1月31日 |
次代: オリヴァー・ウォルコット |