イオニア諸島
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イオニア諸島(ギリシア語: Ιόνια Νησιά, 古典ギリシア語: Ιόνιοι Νήσοι)はギリシャの西部、北東イオニア海に位置する諸島である。
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[編集] 地理
しばしばΕπτάνησα (七諸島)と称されてきたが、実際は主要な7島の他にも無数の島嶼が存在している。7島は北から順に、
- ケルキラ島 (Κέρκυρα)
- パクシ島 (Παξοί)
- レフカダ島 (Λευκάδα)
- イタキ島 (Ιθάκη)
- ケファロニア島(Κεφαλλονιά)
- ザキントス島(Ζάκυνθος)
- キティラ島(Κύθηρα)
北寄りの6つの島はギリシャ本土の西岸沖に、南端のキティラ島はペロポネソス半島南沖に位置している。
歴史的に支配者の交代を繰り返してきたため、多くの名称が存在する。ヴェネツィアにより支配されていた際には、島はイタリア語による名称が付けられた。これは現在の英語の名称の元になっている。
[編集] 歴史
イオニア諸島では紀元前9世紀までにギリシャ人によって生活が営まれていたことがわかっている。初期のエレトリアからの移住者は紀元前734年のコリントスからの植民者によりとってかわられた。イオニア諸島は古代ギリシャ時代には辺境の地であり、ギリシャ史に果たす役割は小さい。その例外は紀元前434年にケルキラ島とその母国であったコリントスとの間に生じた争いで、 アテナイによる介入を招きペロポネソス戦争のきっかけとなった。
イタカ島は古代ギリシャのホメロスによる叙事詩オデュッセイア中で、主人公オデュッセウスの生誕の地とされている。この島が現在のイタキ島であることを証明しようとする試みがなされてきたが、ホメロスの記述と実際の島の位置関係は一致していない。
紀元前4世紀になると、ギリシャ本土と同様にイオニア諸島もマケドニア帝国に吸収された。マケドニアによる支配は146年にギリシャがローマ帝国により占領されるまで続いた。ローマ帝国による支配は400年におよび、その後コンスタンティノープルの支配下に移り、東ローマ帝国領となった。第四回十字軍により1204年にコンスタンティノープルが陥落しラテン帝国が建国されるケファロニア島とザキントス島は1357年までと、旧東ローマ帝国領は分割された。ケルキラ島、パクシ島、キティラ島はヴェネツィア領となり、レヴァントとの間の海上交易の中継基地として利用された。残りの島はLeucadia公領としてフランス、イタリアの公爵により支配された。1261年にギリシャ人によってコンスタンティノープルが奪還されるとイオニア諸島の一部の支配権を取り戻したが、ヴェネツィアの影響力も次第に増えていった。
15世紀になりオスマン帝国がギリシャのほぼすべての領域を支配下におくと、イオニア諸島は苦渋の選択としてヴェネティアの支配を受け入れるようになった。ザキントス島は1482年に、1483年にはケファロニア島およびイタキ島が、1502年にはレフカダ島がヴェネツィア領となった。キティラ島は1393年からヴェネツィア領である。イオニア諸島はオスマン帝国の支配下でなかった唯一のギリシャ語地域であり、ギリシャ史において重要な地位をしめるようになった。ヴェネツィアの支配が始まる頃には、諸島の上流階級はイタリア語も話すようになり、ローマ・カトリックに改宗していたが、下流階層の人々はギリシャ語を話し、ギリシャ正教を信仰していた。
18世紀にギリシャ独立運動が目論まれるようになると、オスマン帝国の支配下になかったイオニア諸島にギリシャ人の知識階級、革命家、外国人支援者が集まるようになり、ギリシャ人としてのアイデンティティーが広がっていった。しかし1797年にナポレオン1世がヴェネツィアを占領するとカンポ・フォルミオの和約によってイオニア諸島はフランス領となった。1799年にはオスマン帝国の援助でロシアのウシャコフ提督が諸島を占領した。1800年3月21日に7島連合共和国が建国され、コンスタンティノープルの陥落以来ギリシャ人の自治が限定付きながら初めて認められた。アイラウの戦いでフランスがロシアを破ると、ティルジット条約によりイオニア諸島はフランスに返還された。
1809年に英国艦隊がザキントス沖でフランス艦隊を破り、同年のうちにケファロニア、ザキントス島を、翌1810年にはレフカダ島を、1814年にはケルキラ島を占領した。1815年の第二次パリ条約によって英国施政下のUnited States of the Ionian Islandsとなり、憲法の制定が認められた。住民からなる定数40の議会 が設けられ、英国の高等弁務官に助言することが認められた。この時期にイギリス式の教育、司法制度が整えられ、住民は英国式に午後の紅茶を楽しみクリケットに興じるようになった。1850年、イギリス施政下のレフカダ島で小泉八雲が生まれている。彼の父はイギリス軍医、母はキティラ島出身のギリシャ人だった。ラフカディオというミドルネームは同島にちなんでつけられた。
ギリシャ独立戦争により1830年にギリシャ王国が建国されると、イオニア諸島でもギリシャ王国への統合ΕΝΟΣΙΣが叫ばれるようになった。イオニア諸島を訪れたウィリアム・グラッドストンは諸島のギリシャへの返還を提案したが英国政府はこれを拒否した。政府はギリシャ国王に選ばれたドイツ生まれのオソン1世を警戒しており、またヴェネツィアと同じように島々が艦隊基地として有用だと考えていた。1862年にオソンが退位させられ、英国よりのゲオルギオス1世が即位した。同年のうちにイギリスはイオニア諸島の返還に合意した。ケルキラ島のコルフ港使用権を引き続きイギリスが保持する条件で、1864年6月2日にイオニア諸島はギリシャに引き渡された。
1941年にドイツ軍によってギリシャが占領されると、キティラ島を除いたイオニア諸島はイタリア領となった。イタリアは島の住民のイタリア化政策を押し進めたが、住民がこれを受け入れるべくもなかった。1943年にイタリアが連合国に降伏するとドイツ軍が島を占領し、ケルキラ島のユダヤ人を強制収容所に送り込んだ。1944年までにイオニア諸島の大部分は共産ゲリラELASの支配下に入り、それから今日に至までイオニア諸島では政治的に左翼支持が続いている。1974年の民主化以後に行われた選挙では常に社会民主主義政党である全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が支持を集めている。
[編集] 現在のイオニア諸島
ギリシャの地方行政区分ではキティラ島を除いた6島はイオニア地方、キティラ島はアッティカ地方に含まれている。島の人口はそれぞれ、ケルキラ島 97,000、ザキントス島 32,000、ケファロニア島 31,000、レフカダ島 21,000、イタキ島 3,000、キティラ島 3,000、そしてパクシ島 2,000である。
伝統的な島の産業であった漁業や農業が衰退したため、最近では島の人口は減少している。今日のイオニア諸島では観光が最重要産業である。特にケルキラ島は人気が高く、アドリア海クルーズの寄港地として好まれている。
[編集] 外部リンク
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