小泉八雲
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小泉 八雲(こいずみ やくも、 1850年6月27日-1904年9月26日)は、日本に帰化したイギリス時代のアイルランド人の新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。
「親日家」、あるいは「こよなく日本を愛した」人物として語れることが多い。しかしながら、八雲の日本観・日本人観の根底には、西洋人には決して日本・日本人を理解することができない、また、日本人は西洋・西洋人を理解することができない、という考え方が横たわっていた。
八雲が称賛した「日本」は、八雲の視点から選び取られた西洋文明とはまったくことなる「日本」であった。八雲自身が居住した熊本や東京で形成されつつあった西洋を模範とした近代的な都市文明に対する八雲の嫌悪は、その裏返しであった。
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[編集] 経歴
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国籍を取得する前の旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)である。一般的に知られているラフカディオは、かれのミドルネームである(「ハーン」のところはよく「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、かれのファミリーネーム「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まって、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着してしまったものである。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある)。なお名前の「八雲」は、一時期当人が島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむとされる。
16歳のときに怪我で左眼を失明して以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写るようにしなかった。
なお、かれが松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。
三男に画家の小泉清がいる。
[編集] 年譜
- 1850年6月27日、誕生。父は、チャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシアレフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
- 1852年、2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
- 1854年、父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病みギリシアのセリゴ島へ帰国。4歳のハーンはサラ・ブレナン大叔母(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化のなかで育てられた。
- 1856年、6歳のとき父母は離婚し父は再婚した。
- 1863年、13歳アショウ・カレッジに入学。
- 1863年、フランスの神学校に行く、帰国しセント・カスバーツ校入学。
- 1865年、16歳のとき学校で遊んでいる最中に左目に怪我をし視力がなくなる(以後右を向いた写真ポーズをとる)。
- 1866年、17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産した。
- 1867年、セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
- 1869年、20歳のときにリバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
- 1872年、トレード・リスト紙の副主筆。
- 1874年、インクワイアラー社に入社。
- 1875年、マティ・フォリーと結婚、当時違法だった黒人との結婚だった為にインクワイアラー社退社。
- 1876年、インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
- 1877年、離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
- 1879年、アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
- 1882年、アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオリンズのクレオール文化、ブードゥー教など
- 1884年、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国、外務省の服部一三に会う。
- 1887年~1889年、フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
- 1889年、ニューヨークに帰る。
- 1890年(明治23年)にハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省)の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現島根県立松江北高等学校)と松江師範学校(現島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江到着。
- 1891年(明治24年)1月、中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(現・国指定史跡)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校)(校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男一雄誕生。
- 1894年(明治27年)神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
- 1896年、東京帝国大学文科の英文学講師、帰化し「小泉八雲」と名乗る。
- 1897年、次男巌誕生。
- 1899年、三男清誕生。
- 1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女寿々子誕生。
- 1904年3月、早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった。享年54。贈従四位(1915年)。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
[編集] 作品
- 『知られざる日本の面影』 (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年
- 「鳥取のふとんの話」「日本人の微笑」ほか
- 『東の国より』 (Out of the East) 1895年
- 『心』 (Kokoro) 1896年
- 『仏陀の国の落穂』 (Gleanings in Buddha-Fields) 1897年
- 「人形の墓」ほか
- 『霊の日本にて』 (In Ghostly Japan) 1899年
- 『影』 (Shadowings) 1900年
- 「和解」「死骸にまたがる男」ほか
- 『日本雑録』 (A Japanese Miscellany) 1901年
- 「守られた約束」「破られた約束」「果心居士のはなし」「梅津忠兵衛」「漂流」ほか
- 『骨董』 (Kotto) 1902年
- 『怪談』 (kwaidan) 1904年
[編集] 著作集
- 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
[編集] 参考文献
- 太田雄三『ラフカディオ・ハーン-虚像と実像』(『岩波新書』新赤版336)、岩波書店、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
- 小泉時・小泉凡編『文学アルバム小泉八雲』、恒文社、2000年4月。ISBN 4-7704-1016-6
- ジョナサン・コット(真崎義博訳)『さまよう魂-ラフカディオ・ハーンの遍歴』、文藝春秋、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
- 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2