ウリ党
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韓国の政党 | |
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党名: ハングル名: 英文名: |
ヨルリン・ウリ党(開かれたわが党) 열린 우리당 The Uri Party |
成立年月日: | 2003年11月11日 |
議長: | 丁世均 |
国会議員: | 110/299(2007年2月現在) |
ウェブサイト: | 열린 우리당(党公式サイト) |
ヨルリン・ウリ党(ヨルリン・ウリとう、2003年11月11日 ‐ )は、大韓民国の政党。
2003年、新千年民主党を離党した盧武鉉支持派を中心に結成。100年の歴史を持つ政党になる事を目指して、「100年政党」というスローガンを謳っていたが、今や解党への道を歩んでいる。
政治思想的には中道派から左翼までの寄り合い所帯であった。
ヨルリン・ウリは「開かれた私たち」という意味である。
[編集] 概要
2003年11月11日に新千年民主党(民主党)から離脱した盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持派を中心に47人で結成され、四大綱領を発表した。「ウリ」とは「我々の」という意味で、名称決定時にウリ党(自分の所属政党)とウリ党(ヨルリン・ウリ党)で混乱が起こるのではないかと物議をかもした。
2004年1月11日に開かれた臨時党大会で鄭東泳(チョン・ドンヨン)議員が新議長に選ばれた。
同年3月9日、盧武鉉に対する大統領弾劾訴追案が発議されるとこれを阻止すべく議長席占拠という実力行使を行うが、3月12日、あえなく排除されてしまう。続いて行われた投票で弾劾訴追案が可決されると、これに抗議の意を示すために全議員が辞職届を出した(10日後に撤回)。しかし、弾劾訴追の賛否を主要な争点とした4月15日の選挙で過半数を越える152議席を獲得し、国会第一党に躍進した。
2005年4月2日新議長に文喜相(ムン・ヒサン)が当選。2006年1月には、再び鄭東泳が議長に選ばれた。
2005年に行われた国会議員補欠選挙では10戦全敗した。2006年の統一地方選ではソウルや釜山をはじめ当初優位に立っていた大田など七つの主要市長選で全敗し、九つの道知事選でも1勝8敗と大敗を喫し、選挙の陣頭指揮を取った鄭東泳議長が引責辞任することとなり、その後金槿泰(キム・グンテ)前保健福祉部長官を議長に選出し、新しい運営体制が発足することになった。しかし、同年7月26日の国会議員補欠選挙では、ソウル市城北乙選挙区で大統領弾劾の主役となった民主党の趙舜衡(チョ・スンヒョン)候補が当選するなど4選挙区で全敗し、党勢の縮小には歯止めがかからなかった。同年10月25日、総合不動産税の強化など各種の不動産規制策に対し「大増税」との批判が集中し、2カ所で行われた国会議員補欠選挙で全敗した。同時に行われた市長・郡長の再選・補選では、盧武鉉大統領が圧倒的な得票率を記録した全羅南道など、4カ所全てで候補を出すことができなかった。
このように勢いを失っていく中で、2007年末の大統領選挙を見据え、党勢回復のためとして一度は袂を分かった民主党との再統合や高建(コ・ゴン)元首相との連携などが絶えず噂された。更に北朝鮮の核実験が行われたことや、経済の悪化が顕著になったことにより、支持率が1割を切る事態となり、盧武鉉と距離を置こうとする勢力と、あくまで支えようとする勢力の間で内紛が起きた。その後、所属議員の散発的な離党が続いていたが、高建の大統領選出馬辞退発表を受け、2007年2月6日、党所属の国会議員23人が「国民統合新党をつくる」として集団で離党したことにより、第1党から最大野党のハンナラ党(127議席)に次ぐ第2党(110人)に転落した。この状況を打破すべく2月14日に開催された全党大会では、これら脱党勢力に加え、民主党も含む党外勢力と統合し、新党を結成することが決議された。また、同大会では新議長として丁世均が選ばれた。
現在、韓国の与党であるが、イラク戦争やイラク派兵には政府が米国への支持を表明したのに対し造反議員も相当数いた。
党としての対北朝鮮政策は平和繁栄政策に代表されるように穏和である。これは盧武鉉政権における政策の中軸のひとつである。
親日派にたいする追放・報復措置は、金元雄などを擁するウリ党にとって重要な案件として推進されている。
四大綱領
- 新しい政治
- 富裕な国
- 暖かい社会
- 韓半島の平和
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 열린 우리당(韓国語公式サイト)
- [1](中国語公式サイト)
- THE URI PARTY(英語公式サイト)
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