盧武鉉
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大韓民国第16代大統領
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任期: | 2003年1月20日 – 現職 |
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出生日: | 1946年9月1日、旧暦8月6日 |
生地: | 慶尚南道金海市 |
政党: | なし |
配偶: | 権良淑 |
盧 武鉉(ノ・ムヒョン)は、大韓民国の政治家で、第16代の韓国大統領(2003年 - )。権良淑(クォン・ヤンスク)夫人との間に1男1女。
新千年民主党出身の大統領。金大中前大統領の後継者として太陽政策を継承し、北朝鮮に対しては宥和的な姿勢で臨んでいる。独自外交路線を推し進めており、米国や日本との関係を悪化させている。
目次 |
[編集] 来歴
盧武鉉 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 노무현(韓国) 로무현(北朝鮮) |
漢字: | 盧武鉉 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
ノ・ムヒョン |
ラテン文字転写: | Roh Moo-hyun |
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慶尚南道金海市進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれた。苦しい家計を思い一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で釜山商高に進学した。在学中に農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する[1]。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。租税関連の訴訟を専門としていたが、1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、人権派弁護士として活動を始めた。
1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当した。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという[2]。
1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、国会議員として政界入りした。国会の労働委員会では、李海瓚や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。
1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民正党、金鍾泌の共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合とし合同への参加を拒み、他の議員とともに改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる親民党との野党統合運動を推進し、統合民主党を発足させた。
その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には国会議員選挙で落選。1995年に釜山市長選挙で落選。1998年補選にてようやく国会議員に復帰したが、2000年の国会議員選挙で再度落選する。しかし、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。
2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。
[編集] 大統領選挙
2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカの予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。
全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した[3]。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。
しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」[4]は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。
このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎打ちとなった。
11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させた米兵に、無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)の下に行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はソウルや各地の都市で繰り返しキャンドルデモを扇動し、メディアもそれを報じて反米機運を増幅した。米国は11月27日にハバード駐韓大使とラポート在韓米軍司令官が謝罪し、さらにブッシュ大統領の謝罪声明を発表して事態の沈静化を図ったが、デモの主催者たちはこれを欺瞞とし、デモを続けた[5]。投票日を前に発生したこの事件は、有権者の投票行動に少なくない影響を与えた。
2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始された。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた[6]。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。
投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている[7]。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。
[編集] 大統領職
[編集] 就任

盧武鉉は相対的に高い国民の支持を得て大統領職に就任したが、与党の親千年民主党は国会では少数派だった。国会ではハンナラ党が過半数を占めており、選挙訴訟、人格攻撃、大統領としての適性を取り上げ、あるいは言葉尻をとらえて盧武鉉を攻撃した。さらに与党の新千年民主党では、全羅道を基盤とする金大中派と盧武鉉を中心とする主流派との間で与党内抗争が激化し、主流派が「ヨルリン・ウリ党」を結成したことによって新千年民主党は下野した。議会での基盤を大幅に損なった盧武鉉は苦境に立たされた。
与野党共に大統領選挙における不正資金疑惑が浮上した。経済運営も難航した。イラクに韓国軍を派遣したことが支持者離れを引き起こし、支持率は急落した。起死回生を図るべく、盧武鉉は国民投票による再信任を提案するが、各方面から批判を浴び撤回を余儀なくされた。盧武鉉は与野党代表と会合を行い「われわれが昨年の大統領選挙で使った不法資金の規模がハンナラ党の10分の1を超えれば、大統領職を退き、政界を引退する」と述べたが[8]、調査が進んで8分の1に迫ると、敵対的なメディアでの主観的な計算の問題としてその数字に異議を唱えた。
イラク追加派兵問題をめぐり、外交部と国防部の「韓米同盟派」と、大統領府・国家安全保障会議(NSC)を中心とした「自主派」が軋轢を起こした。2004年1月、盧武鉉は外交通商部幹部の失言と監督責任を理由に尹永寛外交通商部長官を更迭し[9]、後任に潘基文を任命した。
[編集] 改革
盧武鉉は自らの政権を「参与政府」と称し、より民主的な路線を取った。「ノサモ」などのインターネットの力を借りて生まれたこともあり、ホームページを通しての情報公開を始めた。
最大の公約である地域主義を解消するべく、極度に人口が集中するソウル一極集中を正すために首都移転計画を進めたが、2004年10月21日に憲法裁判所が「ソウルは朝鮮王朝以来の慣習的首都」として「違憲」と判断、修正を余儀なくされた[10]。盧武鉉も歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた[11]。
[編集] 弾劾
- 詳細は盧武鉉韓国大統領弾劾訴追を参照
総選挙を控えた2004年3月9日、野党であるハンナラ党、新千年民主党は国民の理解を得られると踏んで大統領の弾劾訴追を発議した。3月12日、投票(賛成193、反対2)の結果、大統領弾劾訴追案が可決され、一時的に大統領職務を停止された。これにより、当時国務総理(首相)だった高建が大統領職務代行を務めた。
しかし、党利党略から大統領を弾劾し、国政を混乱させた野党に世論が反発、総選挙でのウリ党の地滑り的勝利に繋がり、これをもって事実上の信任と見なされた。5月14日には憲法裁判所により大統領弾劾訴追が棄却され、職務に復帰した。結果として、盧武鉉は政治基盤を大幅に強化し、政策を推進する体制を整えることとなった。
[編集] 大連立論争
与党のウリ党はすべての補選で敗北を喫した。2005年4月30日の補選も例外でなく、ウリ党は6選挙区すべてで議席を獲得できず、惨敗を喫した。不人気に直面した盧武鉉は、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。国民一般の世論とかけ離れたこの提案は、国論を沸騰させた。憲法学者は違憲の疑いを指摘し、ハンナラ党は繰り返し連立政権の交渉を辞退した。与党議員の3分の2が連立政権に反対したが、盧武鉉はこの提案に執着した。
2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった[12]。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。
[編集] レームダック
2006年5月31日に行われた統一地方選挙では、盧武鉉政権の経済無策への批判や朴槿恵ハンナラ党代表襲撃事件も重なって、与党のウリ党は歴史的惨敗を喫した。事実上大統領及び政府与党への信任選挙であったため大統領の責任論が浮上したが、「一度や二度の選挙結果に惑わされるようでは民主主義とはいえない」と述べ、与野党双方からさらに批判が巻き起こった。この選挙結果により以前から言われていた「レームダック(死に体)政権」のイメージがますます強くなってしまい、支持率は20%を切るようになった[13]。
2006年8月、盧武鉉は任期切れとなった尹永哲憲法裁判所所長の後任に、全孝淑憲法裁判所裁判官を内定した。しかし任命手続きに法的な瑕疵があったことを理由に国会が同意せず、憲法裁判所所長の座が空位となった。
2006年10月、国家情報院は386世代民主化闘士が北朝鮮と通じてスパイ活動をしたとして、民主労働党の幹部などを国家保安法違反で逮捕した。しかし、捜査の指揮を執っていた金昇圭国家情報院院長が突如辞意を表明し、その後情報機関の長としては異例にも朝鮮日報へのインタビューに応じて捜査内容を語るという事件が発生した。 同月、尹光雄国防部長官が辞任した。宥和政策に対する批判の高まりから李鍾奭統一部長官も辞意を表明し、国連事務総長へ転出するため辞任した潘基文外交通商部長官と合わせて、外交・安保の責任者がすべて入れ替わることとなった。
2006年11月、盧武鉉は憲法裁判所所長の指名を撤回した。盧武鉉は議場を占拠して任命同意案の採決を阻んだ国会を非難するとともに、指名撤回を「屈服」と表して、任期を終えることのできない最初の大統領にはなりたくないと述べた[14]。
2006年12月、盧武鉉は民主平和統一諮問会議の席上で、韓国の国防力に自信を示すと共に、在韓米軍基地移転や戦時作戦統制権の返還に反対する退役軍人に対し「米国の後ろに隠れて『兄貴、兄貴のパワーだけ信じるよ』とばかりしてはいられない。一度は度胸をみせるべきじゃないか」「自国軍隊の作戦統制さえきちんとできない軍隊を作っておいて、『私は国防長官です』、『私は参謀総長です』と威張りたいというのか」と反論した[15]。 また、軍に対しては『軍隊に入るから人間が腐るんだ』という旨の発言をし、軍部を敵に回してしまう失態を演じている。韓国では徴兵は国民の義務であり、その義務を愚弄する発言として同国のネチズン(ネット住人)から批判を浴びた。そしてその修正のために閲兵に訪れた際『先の私の発言は間違いでもあり正しい面もある』と非を認めない曖昧な発言をしている。
[編集] 党争
度重なる補選の敗北と次期大統領選挙を見据えて、与党ウリ党では金槿泰を中心に、かつて袂を分かった民主党との再統合を模索する動きが活発化した(統合新党論)。盧武鉉は再統合を地域主義への回帰であるとして非難し、長文の手紙を発して党員への呼びかけを行った。また次期大統領選挙の有力候補であり、進歩主義陣営結集の核と目された高建を激しく攻撃し、大統領選挙への出馬辞退に追い込んだ。
ウリ党の親盧勢力も、盧武鉉の意を受けて党を死守するとの立場を見せた。金槿泰らが党の進路を決める全党大会を前に、外部人材の受け入れを妨げるとして基幹党員制の撤廃に踏み切ると、改正手続きに不備があると仮処分を申し立て、法院はこれを認めた。ここに至り、ウリ党の現職議員が全党大会を待たずに脱党を始めた。盧武鉉は党の現状を知り、青瓦台に親盧勢力を招いて党の分裂を防ぐように方針転換を促した結果、党憲の改正は改めて議決されたが、現職議員の脱党を完全に押し留めるには至らなかった[16]。
[編集] 外交
[編集] 日本
就任当初は「未来志向」を謳い、日本と良好な関係を結ぶと期待された。初めての訪日が、顕忠日という殉国者に敬意を払う日と重なり批判を浴びたが、盧武鉉は「私たちはいつまでも過去の足かせに囚われているわけにはいかない」[17]と主張して、訪日の重要性を強調した。日韓首脳が頻繁に会談し、意見交換する必要があるとの認識から、当時の日本の首相である小泉純一郎との間でシャトル首脳会談を推進することで合意し、相互を往復して会談を重ねた。
しかし小泉は、従来から日本と韓国の間に横たわり、双方が必要に応じて棚上げしてきた問題について、盧武鉉に何も与えなかった。人権派弁護士として軍部独裁に反対する学生とともに歩み、文民政権の正当性を確立するために歴史の清算を掲げる盧武鉉のこだわりを、小泉は理解しなかった。盧武鉉も、冷徹なリアリストである小泉を読み違えた。期待を裏切られたと感じた盧武鉉は失望を深めた[18]。
2005年3月、盧武鉉は三・一節の演説で日本に植民地支配への明確な謝罪と反省、賠償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵をきった。演説への論評を求められた小泉は、盧武鉉の発言は国内向けと応じて取り合わなかった[19]。両者の亀裂は決定的なものとなり、盧武鉉は「外交戦争も辞さない」という強い表現で日本への批判を続け、最終的には小泉の靖国神社参拝を理由として首脳会談を中止した。日本の大手マスコミは日韓関係の悪化の責を小泉に求めたが、小泉はこれを容れず、また北朝鮮による拉致が明るみになることで変化した日本の世論も、小泉を支持した。
2006年4月25日、盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた[20]。
2006年7月5日には竹島(韓国名:独島)周辺の日本の排他的経済水域及び領海内で、韓国船が日本の抗議を無視し海洋調査を行った。日本が海洋調査を実施しようとした際には「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」[21]と猛反発したことから、一連の動きは露骨な対決姿勢の表れとしか見られず、日本との間に更なる溝を作るという外交的失敗を犯した。同日に北朝鮮が行ったミサイル乱射に対しても両国は連携できず、国連安保理での制裁議論に際して、日本は韓国に対する配慮を行わなかった。
2006年10月9日、小泉の後を受けて首相に就任した安倍晋三との間で、約11カ月ぶりに日韓首脳会談が行われた。しかし盧武鉉は同日に北朝鮮による地下核実験があったにも関わらず、会談時間の半分近くを歴史認識問題に割いたために両国の溝は埋まらず、共同文書の発表に至らなかった[22]。
2007年1月、盧武鉉が前年ハノイで行われた安倍晋三との会談の席で、日本海呼称問題の解決のために日本海を「平和の海」と改名するよう提案し、即座に拒否された事が報じられた。この提案は政府内の調整を経ておらず、国際社会に「日本海」の改名を働きかけている官民の努力を無にするものであると非難された[23]。
[編集] 米国
盧武鉉は大統領選挙の前から反米主義で知られ、それは選挙戦の間も不利な条件とはならなかった。在韓米軍による女子中学生死亡事故と、北朝鮮に対するブッシュ大統領の強硬姿勢によって高まった反米機運が、2002年には一般的だった。盧武鉉は大統領に当選する前「反米だからどうだと言うのだ?」と述べ、それは盧武鉉への支持に繋がると同時に、多くの国民に彼が米国との関係に独立した一線を導くと信じさせた[24]。

しかし大統領就任後、この様な見解が負債として彼に圧し掛かった。韓国の保守派と米国は疑念を抱き、反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を極左として非難した。盧武鉉はこの否定的なイメージを覆すべく、初訪米の際に「もし53年前に米国が韓国を助けなかったら私は今ごろ政治犯収容所にいたかもしれない」[25]と発言したが、米国からの支持は得られず、発言自体があまりにも自虐的かつ国家的自尊心を侮辱するものとして、韓国人に受け取られた。そしてこの「転向」はマスコミ向けのポーズをする為だけに米国を訪問しないと述べていた大統領選挙戦中の発言と一致せず、一層警戒される事となった。
盧武鉉が米国のイラク戦争を支持して軍を派兵する事を決めた時、多くの韓国人は裏切られたと感じた。あくまでも平和維持任務であることを説き、北朝鮮の核危機を解決するにあたり、米国の支持を得るために派兵が必要なのだと主張したが、反対勢力は盧武鉉を米国の傀儡と非難した。
米国との関係は、北朝鮮の核危機が進むにつれ悪化した。韓国の宥和政策は米国の強硬政策と両立せず、米国は繰り返し韓国による北朝鮮への経済援助が、北朝鮮の頑なな態度を強化させて、交渉の為の協調を傷つけると主張した。
韓国が北東アジアのバランサーの役目を果たすという盧武鉉の宣言は、さらに米国を苛立たせた。周辺諸国と案件ごとに選択的協力関係を築くという基本方針は、米国が紛争当事者になったときに韓国は中立的立場を維持する可能性があると受け取られた。リチャード・ローレス国防次官補は露骨に不快感を示し、米韓同盟の役割に疑問を呈した[26]。
2006年3月、韓国は米国との自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を開始すると発表した。盧武鉉の元経済政策助言者を含む多くは、政府があまりにも拙速であり韓国経済に否定的な影響を与えると懸念を表明した。その様な反対にも関わらず、盧武鉉は繰り返し自由貿易協定を支持し、それが韓国経済に良い影響を与えると主張している。

米国との伝統的な関係が変化する過程で、戦時作戦統制権[27]の委譲問題が浮上した。盧武鉉はこの問題を「自主国防」という視点で捉えて積極的に推進した。米国は当初、韓国にその能力が整っていないと消極的だったが、盧武鉉が「作戦統制権こそ自主国防の核心、自主国防こそが主権国家の花」と政治テーマに掲げて自国のメディアに喧伝する[28]につれ、積極姿勢に転じた。これは、韓国が自国の防衛に主要な責任を持つことは米国にとって損とならず、北朝鮮の侵攻を抑止するために朝鮮半島に固定された在韓米軍を抽出して、他の目的に再活用し得ると意識されたことが大きいとされる。 冷却化する米韓同盟に危機感を覚えた歴代の国防長官を含む軍の重鎮が、尹光雄国防長官に戦時作戦統制権の返還推進を中止することを求めたが、この意見は容れられず、10月の米韓定例安保協議会(SCM)で、委譲が正式に決定した。これにより、現在まで韓国の安全保障を担保してきた米韓連合司令部は近い将来に解体され、韓国防衛における在韓米軍は副次的地位に引き下げられることとなった。
2006年9月14日(日本時間15日0時)、盧武鉉は欧州歴訪についで米国を訪問し、ブッシュ大統領と6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴する様に米国のメディアの扱いは冷淡であり、同日付のニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された[29]。また、会談後の共同文書の発表に至らず、一つの時代の終わりと、同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめる事となった[30]。
[編集] 北朝鮮
北朝鮮に対しては金大中の太陽政策を引き継ぎ、関与政策と包容政策を継続している。2004年11月にはロサンゼルスで「核とミサイルが外部の脅威から自国を守るための抑制手段だという北朝鮮の主張には一理ある」と述べ[31]、北朝鮮の主張に理解を示した。経済破綻状態にある北朝鮮を安定させるべく、肥料や米などの物質的支援、開城工業団地や金剛山観光開発といった経済的支援を行い、北朝鮮への圧力を強める米国と意見の違いを見せた。
このような盧武鉉の配慮にも関わらず、北朝鮮は2006年7月5日、ミサイルを発射し、盧武鉉の立場を苦しいものとした。しかし、7月9日、政府見解として「果たしてわが国の安保上の危機だったか」「(政府対応が遅れたのは、国民を不安にしないために敢えて)ゆっくり対応した」「敢えて日本のように夜明けからばか騒ぎを起こさなければならない理由は無い」などと、国際社会の見方とは非常に大きな隔たりのある見解を発表し[32]、韓国国内からも批判を受けた。日本政府が国連安全保障理事会へ北朝鮮への制裁決議案を提出した事については強い警戒感を示し、包容政策を継続する韓国政府と、制裁論に向かう日本政府との間で明白なズレが生じた。
7月13日には第19次南北閣僚級会談が決裂。「南は北の先軍政治の恩恵をこうむっている」という恩を仇で返される言葉をもらい、宥和政策の行き詰まりを示す出来事となった。それでも8月15日の第61周年光復節では「決して容易なことではない」としながらも、北朝鮮が過去に行った戦争や拉致を許すと演説し[33]、宥和的姿勢を維持した。そして同時期に発生した北朝鮮の水害に対する援助として、米、セメント、重機などの支援を行った。
10月9日、北朝鮮は「核実験実施」を発表した。それを受けて国連安全保障理事会は2006年10月15日に制裁決議を採択した。一時は与野党代表や歴代の大統領経験者を集めて意見を聴くといったふらつきを見せたが、その後は従来の路線に立ち戻り、アメリカから求められた対北朝鮮への制裁拡大に同意しないなど、なおも宥和姿勢を継続する意思を明らかにしている。
[編集] 中国
「北東アジアバランサー論」に沿って、日本や伝統的な同盟国である米国との関係を見直しながら、中国との接近を図っている。北朝鮮の核開発問題では宥和的姿勢で協調し、また靖国神社問題や歴史教科書問題では暗黙の共闘を演じた。2006年11月には、自由貿易協定(FTA)締結に向けた交渉を始めることで合意している。
中国の推進する東北工程では高句麗を古代中国の地方政権と見なし、これを自国の歴史の一部であるとする韓国側と意見の相違がある。2004年には、中国外交部がこれまで韓国の歴史として紹介していた高句麗の記述をホームページから削除し、韓国政府がこれに抗議するという騒ぎが起こった[34]。しかしその後、両国外交部の間で「民間レベルの学術討論で解決していき、政治問題としない」という口頭の合意を交わして関係の修復を図った。この合意は2006年10月に盧武鉉が中国を訪問した際にも、胡錦涛国家主席との間で再確認された[35]。
[編集] その他
民主化以後の歴代韓国大統領は政権の理念を一語で表す伝統がある。盧武鉉もこれに倣い、自らを「参与政府」(国民が政治に参与する政府)と呼んでいる。
尊敬する人物はリンカーン、金九。リンカーンについては著書もある(後述)。趣味はヨット。大統領就任以前、スクールで学ぶために来日したこともある。ただし、ヨットはブルジョア趣味なので、韓国で公にされることはない。
盧武鉉政権には運動家出身で実務経験が少ない者が多いことを理由として(事実行政実務の経験のあったのは首相を務めた高建など極少数だった)、保守層を中心に「アマチュア政権」「NGO(非政府組織)政権」と批判する声もある。
ハンギョレ(新聞)の創刊当時の株主であり、1次、2次増資の際も出資した[36]。ハンギョレに対しては、新聞法により流通や配達の支援を行い、また政府からの事業資金の援助も行っている。
「盧」(ノ)という音と綴りが英語圏で否定的なニュアンスを持つことから、英文表記では"Roh"としている。また、北朝鮮では語頭のリウル(R)を発音するため、「ロ・ムヒョン」と呼ばれる。
2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問。この際、筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、在日韓国人を含む日本の一般市民と交流を持っている。その時「在日として日本の地域社会に貢献していきたい」と述べた在日の高校生に「現地の文化や体制に適応してその社会に寄与することは非常に重要なこと」と述べた[37]。
2005年2月4日に二重瞼に整形手術する。続いて夫人や側近の経済補佐官、後援会長も整形した。
2007年1月23日、国民向けの特別演説を行ったが、準備不足から演説の中断や読み飛ばしを引き起こした。しかも大幅な省略にも関わらず、事前に予定した40分の放送枠を大幅に超過してしまい、後続の人気番組の開始時間を遅延させてしまった。
退任後は故郷に帰ることを表明しており、金海市の生家近くに新居を建設している。
[編集] 略歴
- 1946年9月1日(陰暦で8月6日)、慶尚南道金海市進永邑にて父・盧判石、母・李順禮の三男として生まれる。本貫は光州盧氏。
- 1966年、釜山商業高校卒。
- 1968年~1971年、陸軍で兵役に就く。乙支部隊(第12師団)で小銃長。上兵で除隊。
- 1973年1月、権良淑と結婚。
- 1975年、司法試験合格(17期)。
- 1977年、大田地方法院判事。
- 1978年、弁護士開業。
- 1981年、釜林事件の弁護を担当。
- 1983年、来日。琵琶湖での日韓親善ヨットレースに参加。
- 1984年、公害問題研究所理事。
- 1987年6月、大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導。
- 1987年9月、大宇造船事件。労働争議調整法違反、葬式妨害罪で逮捕される。弁護士資格停止処分。
- 1988年4月、第13代総選挙で当選(釜山東選挙区、統一民主党)。
- 1988年、「第五共和国における権力型不正調査特別委員会」委員。
- 1992年4月、第14代総選挙で落選(釜山東選挙区、民主党)。
- 1995年6月、釜山市長選で落選。
- 1996年4月、第15代総選挙で落選(ソウル鍾路選挙区)。
- 1998年7月、補欠選挙で当選(ソウル鍾路選挙区、新政治国民会議)。
- 2000年4月13日、第16代総選挙で落選(釜山北・江西乙選挙区、新政治国民会議)。
- 2000年8月~2001年3月、海洋水産部長官。
- 2001年、新千年民主党常任顧問、最高委員。
- 2002年12月19日、第16代大統領に当選(新千年民主党)。
- 2003年2月25日、第16代大統領に就任。
- 2003年6月6日~9日、国賓として日本を訪問。
- 2003年9月、民主党を離党。
- 2004年3月12日、国会で大統領弾劾訴追案可決。大統領職務停止。
- 2004年5月14日、憲法裁判所が大統領弾劾訴追案を却下。大統領職務復帰。
- 2004年5月20日、ヨルリン・ウリ党に入党。主席党員。
- 2004年12月17日、日韓首脳会談のため、鹿児島県指宿市を訪れる。
- 2005年9月14日、国連総会本会議で演説。
- 2005年11月12~19日、釜山APEC。ホスト国として各国首脳と会談。
- 2007年2月28日、ヨルリン・ウリ党を離党。
[編集] 著書
- 『人が暮らす世の中』(1989年)
- 『おーい、ちょっと助けてくれよ-盧武鉉の告白エッセー』(1994年、自伝的エッセー)
- 『盧武鉉が見たリンカーン』(2001年、盧武鉉が尊敬するリンカーンに託して自らの政見を語ったものだが、政治的書物としての評価は高い)
- 『盧武鉉・常識または希望』(2002年、邦訳は『韓国の希望 盧武鉉の夢』〔現代書館〕)
- 『盧武鉉のリーダーシップ論』(2002年、邦訳は『私は韓国を変える』〔朝日新聞社〕)
- 『新しい風、政治、働き手』(1989年、共著)
- 『明日を準備する今日』(1996年、共著)
[編集] 発言
[編集] 2006年
- 01月25日…「韓国国民感情考慮すべき」今後も靖国参拝の中止を求めていく考え
- 01月25日…「対北圧迫・崩壊の解決策ならば韓米間に隔たり生じる」
- 01月28日…米国の対北圧力に公式に警告
- 03月01日…「日本は人類の道理に従い行動し国際社会の信頼を確保すべき」
- 04月14日…「韓国人は失敗したことがない」
- 04月29日…「北の核開発は防御のためであって、先制攻撃用ではない」
- 05月03日…「日本は中国のマネをして天皇をつくった」
- 05月09日…「北朝鮮に大幅な譲歩をしたい…いつどこでどのような話でも構わないので会って話をしよう」
- 05月08日…「韓国の経済人たちは無から有を創造した」
- 05月14日…「中日間で自分を守るため強い軍事力必要」
- 05月14日…ドバイの経済人との夕食懇談会の席で、ドバイの都市建設を賞賛しながら「世界中からたくさんの人が訪れる万里の長城やピラミッドも、結局は戦争による抑圧と搾取の結果として積み上げられた、他人の苦痛を担保にした不道徳な遺跡といえる」[38]
- 05月16日…アナン事務総長の前で日本を正面から批判「独島は日本が日露戦争当時に強制的に占領したもの」
- 05月18日…「相手を尊重し譲歩することで合意を実現する寛容の文化を育てるべき」
- 05月19日…「優越感と劣等感が混在している日本の行動が、北東アジア秩序に不安要因になっている」
- 05月29日…「北朝鮮が核を開発するのは、先制攻撃用ではなく防御用」
- 06月02日…「選挙に負けたのかもしれないが、私には重要なことでない」
- 06月12日…(統一地方選での責任問題に対して)「私が平常心を保つことで、国民が安心するのではないか」[39]
- 06月16日…「南北統一は連邦制よりも経済・文化から」
- 06月22日…海上警察を激励して「日本が挑発できない国防力を持っている」「東海で突発事態の時に対応できる程度の戦力をそろえる」
- 06月25日…「ユギオが来ると日本の侵略思い出す」「南北関係では安全と平和が最優先」
- 07月11日…「日本の態度は、北東アジアの平和に尋常でない事態を招く可能性がある」
- 07月11日…「ミサイル発射は米国に譲歩を要求する政治的行為」
- 07月11日…(米国の金融制裁措置に対して)「偽ドルを製造した証拠を出さないで、帳簿を要求するようなもの」
- 07月11日…(北朝鮮への態度について)「米国は友邦なので厳しく責めることは出来ないが、日本とは対決しなければならない」[40]
- 07月13日…「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」[41]
- 07月15日…「米国が韓国を北東アジアの平和を担うポストにつけてくれれば助けとなるだろう」
- 07月19日…(米日の追加制裁の動きに対して)「過度に対応し不必要な緊張と対決局面を作り出す一部の動きは問題解決の役に立たない。」[42]
- 07月25日…「米国が失敗したと言ってはいけないか?」
- 08月06日…「私を無視するな、私が復活する日が来ないとも限らない」
- 08月09日…「日本だけをモデルに成長していくわけにいかない」
- 08月09日…「戦時作戦統制権の移譲時期は2009~2012年の間、今すぐでも構わない」
- 08月10日…「アメリカの言うとおりに、韓国大統領が“はい、はい”というのを韓国国民は望んでいるだろうか」
- 08月13日…「私が何を間違ったのか分からない」[43]
- 08月13日…「個人的にブッシュ大統領は、私のことが好きだ」[44]
- 08月13日…「アメリカが北朝鮮を見る視覚は文明が野蛮を見る視覚のよう」[45]
- 08月15日…「米軍の統制権行使は違憲」[46]
- 08月27日…(保守系メディアが大統領を批判することに対し)「メディアを先進国水準にすべく今頭を悩ませている」[47]
- 08月29日…「(就任後)3年半になったが私の記憶には世の中が騒がしかったという記憶しか残ってない」[48]
- 09月26日…(2つの人工衛星の成功に際して)「地球を征服したような快感がある」[49]
- 09月28日…「6カ国協議は、アメリカの金融制裁が原因で中断している」
- 10月09日…(太陽政策に対して)「見直さなければならない」(後に撤回)
- 10月10日…(北朝鮮による核実験に対して)「こんな小さな問題」[50]
- 11月20日…(北朝鮮による南侵に対し)「われわれはかつて植民地支配を受け、その後内戦まで行うという波乱の道を歩んできた」[51]
- 12月07日… 「北朝鮮が負け戦を仕掛けるはずはない」[52]
- 12月22日…(軍関係者の統制権委譲への反発に対し)「電話機も車も船もうまく作れるのに、なぜ作戦統制権だけ行使できないのか」[53]
- 12月22日… 「最近、わたしは妻と2日に1度は口げんかをする。妻が新聞を読めと言うんだ。」[54]
- 12月22日…「(高首相起用は)むしろ私と盧政権に参加した人が仲間外れになるような体制になった」[55]
- 12月24日…「(徴兵制度に対して)人間を腐らせる」[56]
[編集] 2007年
- 01月03日…「(自分に対する)国民の評価は良くあってほしいという気持ちがあった。難しいことだと思っていたが、昨年中に完全に放棄してしまった」[57]
- 01月04日…「侮辱するのか。言葉を選べ」(李龍得韓国労総委員長に)[58]
- 01月11日…「憲法改正に必要ならば離党も検討」[59]
- 02月28日…「北朝鮮が攻撃を受けてもいないのに、核兵器を先制使用すると考えるのは精神病患者だけ」[60]
- 02月28日…「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」[61]
- 03月01日…「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」[62]
- 03月02日…「62年ぶりに作戦統制権が韓国軍の手に戻るのは韓国軍が地道に実力を向上させてきた結果であり、韓国軍の地位を立て直すこと」[63]
- 03月13日…「利益にならないFTAは締結しない」[64]
- 03月13日…「失敗はしたが政策は遂行した大統領として記憶してもらえないか」[65]
[編集] 参考文献
- 盧武鉉編著 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、青柳純一監訳、現代書館、2003年。
- 山本健太郎 『韓国における政党の大統領候補者選出過程-2002年の新千年民主党の「国民参加」党内選挙を中心に-』、『レファレンス』No.630、36-43頁、国立国会図書館、2003年7月。
- 石川雅重・嚴泰浩 『大韓民国の第16代大統領選挙』、『CLAIR REPORT』NUMBER 244、財団法人自治体国際化協会、2003年6月16日。
[編集] 関連書
- 坂眞 『韓国が世界に誇る ノ・ムヒョン大統領の狂乱発言録』、飛鳥新社、2007年1月。
[編集] 脚注
- ^ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁。盧武鉉が貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となった。
- ^ 『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。
- ^ 盧武鉉の義父は朝鮮戦争中に北朝鮮側に立って労働党昌原郡党副委員長などを歴任し、反動分子の調査と虐殺に加担したとされる。『「盧大統領の義父はパルチザン」発言が無罪に』、朝鮮日報、2004年10月27日。また、このような李仁済の指摘に対し、盧武鉉は「ならば愛する妻を捨てろというのか」「どうしてそれが問題になるのか」と反論した。
- ^ 『盧候補がYSを12年ぶりに訪問』、朝鮮日報、2002年4月30日。
- ^ 『全国で「中学生追悼」のキャンドルデモ』、朝鮮日報、2002年12月15日。
- ^ 李会昌が6%の経済成長を公約に掲げたため、対抗して7%という数字を出したといわれている。『7%成長公約を「腹が立って」出したとは』、朝鮮日報、2004年11月5日。
- ^ 『鄭夢準氏、盧候補の支持を撤回』、朝鮮日報、2002年12月18日。
- ^ 『盧大統領「不法資金がハンナラ党の10分1超えれば辞任」』、朝鮮日報、2003年12月14日。
- ^ 『盧大統領と尹前長官、出会いから別れまで』、朝鮮日報、2004年1月15日。
- ^ 現在は規模を縮小した行政首都移転を進めている。
- ^ 文京洙 『韓国現代史』、岩波書店、2005年、208頁-217頁。
- ^ 『盧大統領・朴槿惠代表会談、合意なく終了』、朝鮮日報、2005年9月8日。
- ^ 2006年10月24日に韓国社会世論研究所が行った調査では12.9%まで下落している。『盧大統領、今の支持率では核問題への対応困難』、朝鮮日報、2006年10月28日。
- ^ 『大統領任期発言:その内容とは』、朝鮮日報、2006年11月29日
- ^ 『「私は正気」盧大統領、演壇叩いて70分「決意に満ちた発言」』、中央日報、2006年12月22日
- ^ 基幹党員制とは全党大会の1カ月前を基準に、6カ月以上党費を納めた「基幹党員」にのみ、党内選挙権と非選挙権を認めるもの。外部人材の登用が難しくしていると問題視されていた。ウリ党中央委員会は、金槿泰らが率いる非常対策委員会に党憲・党規改訂権を与えていたが、法院はこれを無効とする仮処分を決定した。
- (朝鮮語)『ヨルリン・ウリ(党)結局割れるか』、ハンギョレ、2007年1月19日。
- (朝鮮語)『与党参政連(参加政治実践連帯)「基幹党員制」苦心』、ハンギョレ、2007年1月27日。
- 『盧大統領が驚いた韓首相の報告の中身とは』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月26日。
- 『新党派の一部「脱党論議は引き続き」』、東亜日報、2007年1月30日。
- ^ 『「韓日、過去の足かせから自由になるべき」』、朝鮮日報、2003年6月6日
- ^ 『「似て非なる」日韓首脳の誤算』、日本経済新聞、2006年9月3日。
- ^ 『韓日首脳の衝突 発端は小泉首相の「国内向け」発言』、朝鮮日報、2005年3月18日。
- ^ 『韓日関係についての大統領特別談話文』、駐日韓国大使館、2006年4月25日。
- ^ 『【海洋調査】盧大統領「第二の侵略行為だ」』、朝鮮日報、2006年4月19日
- ^ 『盧大統領 歴史認識にこだわり』、毎日新聞、2006年10月10日。
- ^ 『「平和の海」発言:韓国政府内で事前協議はあったのか』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2007年1月9日。
- ^ 2002年9月11日の講演における発言。新千年民主党の大統領候補であった盧武鉉は、韓国の大統領候補者が行ってきた米国訪問を拒否し、「アメリカに行った事がない、ということは反米主義者を意味するのか。もしそうなら、反米主義者でもいいのではないか」と語った。劉敏鎬 『反米と親米との間-盧武鉉新大統領』、独立行政法人経済産業研究所、2003年1月20日。
- ^ 2003年5月12日、コリアソサイアティー主催の夕食会における発言。『【韓米首脳会談】盧大統領の対北観変わったか』、朝鮮日報、2003年5月15日。
- ^ ローレスは盧武鉉のバランサー発言を受けて駐米韓国大使館を訪れ、「北東アジアのバランサー論は韓米同盟と両立できない概念だ。もし同盟を変えたければいつでも言ってくれ。希望通りしてやる」と発言したという。『ローレス米国防部次官補「韓米同盟変えたい時はいつでも言ってくれ」』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2005年6月10日。
- ^ 作戦統制権とは作戦計画や作戦命令に明示されている任務を遂行する為に、司令部と部隊を組織し、その部隊を使用する権限。指揮権とは異なり兵站・行政・規律・内部組織・部隊訓練に関する権限は含まない。詳しくは等 雄一郎他 『国連安保理決議に基づく多国籍軍の「指揮権」規定とその実態』、『調査と情報』第453号、4頁、国立国会図書館、2004年8月2日、を参照のこと。
- 韓国は朝鮮戦争中に、李承晩大統領(当時)がマッカーサー元帥に「韓国陸海空軍に対する指揮権委譲に関する書簡」を送り(1950年7月15日)、作戦指揮権(全ての指揮権)を在韓米軍(国連軍)に委譲した。そしてそれは米韓相互防衛条約(1954年)で作戦統制権に改められた。平時作戦統制権は1994年12月に韓国政府に委譲されたが、戦時においては現在もなお米韓連合軍司令官(在韓米軍司令官)が行使することとなっている。
- 本来であれば国防を果たすためにどのような手段を採るか、(作戦統制権の)単独行使と共同行使のどちらが戦力を効率的に運用できるかという議論なのだが、韓国では上記のような歴史的経緯から「失われた国権の回復」という政治課題となっている。事実、金泳三政権下での平時作戦統制権の委譲においても「返還」という言葉が使われた。『戦時作戦統制権返還の主な争点に関するQ&A』、駐日大韓民国大使館、2006年8月12日。
- ^ 『盧武鉉大統領、聯合ニュースとの特別会見(1)戦時作戦統制権』、駐日大韓民国大使館、2006年8月9日。
- ^ David E. Sanger, "U.S. to Roll Out Tepid Welcome For President Of South Korea", The New York Times, Sep 14th, 2006. 日本と米国は太平洋を隔てて同一の立場であるという暗喩が込められている。
- ^ Sung-Yoon Lee, "Korea-US: Swan song for an alliance", Asia Times, Sep 16th, 2006.
- ^ 『盧大統領の米国批判性演説 各界で影響を懸念』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年11月14日。「ロサンゼルス発言」と言われることもある。
- ^ (朝鮮語)『安保独裁時代の亡霊から脱しよう』、青瓦台広報主席室、2006年7月9日。
- ^ 『盧大統領「北朝鮮の過誤…長い目で許そう」』、東亜日報、2006年8月16日。
- ^ 『ネットから「高句麗」を消した狭小な中国』、朝鮮日報/朝鮮日報JNS、2004年7月9日。
- ^ 『高句麗史問題、韓中が「思慮深い措置」で合意』、聯合ニュース、2006年10月13日。
- ^ 『盧大統領、ハンギョレ新聞に「発展基金」寄託へ』、朝鮮日報、2005年6月29日。
- ^ 『韓国・盧武鉉大統領 本音で直接対話』、東京放送、2003年。
- ^ 『盧大統領、UAEとエネルギー備蓄事業で合意』、朝鮮日報、2006年5月15日。
- ^ 『盧大統領「私が平常心を保つことで国民が安心」』、朝鮮日報、2006年6月12日。
- ^ 『盧大統領「日本とは対決しなければならない」』、朝鮮日報、2006年7月17日。
- ^ 『盧大統領「親日派の財産調査は遅かったが幸いだ」』、聯合ニュース、2006年7月13日。
- ^ 『【ミサイル発射】盧大統領、米日の追加制裁に反対』、朝鮮日報、2006年7月20日。
- ^ 『盧大統領「私が何を間違ったのか分からない」』、中央日報、2006年8月18日。
- ^ 『盧大統領、「人々は私の言うことを聞かないようだ」』、東亜日報、2006年8月19日。
- ^ (朝鮮語)『作統権、対北平和対処にも必要』、ハンギョレ、2006年8月19日。
- ^ 『盧大統領「米軍の統制権行使は違憲」』、朝鮮日報、2006年8月16日。
- ^ 『【社説】退任しても「政治とメディア」はあきらめないという盧大統領』、朝鮮日報、2006年11月4日。
- ^ 『盧大統領「騒がしかったという記憶だけ」』、中央日報、2006年8月30日。
- ^ 『盧武鉉大統領「衛星打ち上げで地球征服した気分」』、聯合ニュース、2006年9月26日。
- ^ 『【社説】北核実験が「小さな問題」という盧大統領』、中央日報、2006年10月11日。
- ^ 『【社説】「韓国戦争は内戦だった」と言う盧武鉉大統領』、朝鮮日報、2006年11月22日。
- ^ 『【社説】「北朝鮮が負け戦を仕掛けるはずはない」 という盧大統領』、朝鮮日報、2006年12月8日。
- ^ 『統制権:「恥を知るべきだ」盧大統領、国防OBらを非難』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ^ 『盧武鉉大統領夫妻、最近不仲の原因は…』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ^ 『盧大統領「高建氏の総理起用は失敗だった」』、朝鮮日報、2006年12月22日。
- ^ 『盧大統領「軍隊に行けば人間が腐る」』、朝鮮日報、2006年12月24日。
- ^ (朝鮮語)『盧大統領「国民の評価は去年完全にあきらめた』、ノーカットニュース、2007年1月3日。
- ^ (朝鮮語)『盧「公開席上で侮辱を与えるのか。言葉を選べ』、ビュースエンニュース、2007年1月6日。
- ^ 『盧武鉉大統領「憲法改正に必要ならば離党も検討」』、聯合ニュース、2007年1月11日。
- ^ 『盧大統領「北の核先制使用を信じるのは精神病患者だけ」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ^ 『盧大統領「税金が高いなら、安いところに引っ越せばよい」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ^ 『盧大統領「韓国は歴史的に他国に害を及ぼしたことない」』、朝鮮日報、2007年2月28日。
- ^ 『「作戦統制権移譲は軍の地位立て直し」盧大統領』、聯合ニュース、2007年3月2日。
- ^ 『盧大統領「利益にならないFTAは締結しない」』、聯合ニュース、2007年3月13日。
- ^ 『「失敗はしたが政策は遂行」盧大統領が自己評価』、聯合ニュース、2007年3月13日。
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
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