カール大帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カール大帝(カールたいてい)あるいはシャルルマーニュ(742年4月2日 - 814年1月28日) は、フランク王国の国王(在位 768年 - 814年)。カロリング朝の小ピピン(ピピン3世)の子で、カール1世ともいう。 弟のカールマンとの共同統治として彼の治世は始まったが、カールマンは早逝したため、単独の国王として長く君臨した。
ラテン語ではCarolus Magnus(カロルス・マーグヌス、カロルス大帝)、ドイツ語ではKarl der Große(カール・デア・グローセ、カール大帝)、フランス語ではCharlemagne(シャルルマーニュ)、英語ではCharles the Great(チャールズ・ザ・グレート、チャールズ大帝)と呼ぶ。彼は後にフランク王国から分かれた神聖ローマ帝国およびフランス王国の歴史において重要視され、ドイツ史とフランス史の中でともに偉大な国王とみなされる。日本ではドイツ語風にカール大帝あるいはフランス語風にシャルルマーニュと呼ぶことがほとんどである。彼には多くの子孫がいて、ジョージ・ワシントンもその一人であるという。
彼の業績は外征において、北イタリアのロンバルド王国(ランゴバルド)を774年に滅ぼし、再三の遠征によりザクセン族を服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。また、パンノニア平原にいたアヴァール人を討伐した。結果としてカールの王国は空前の版図をもつにいたり、フランク王国は最盛期を迎えた。
内政においては、アングロ・サクソン人のアルクィン(アルクィヌス)をはじめとして内外から高名な学者や知識人を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。それは、必要とされる聖職者や官吏を養成するという色合いの濃いものであり、一部のエリート層のみを中心とする閉鎖的な性格を持つものだったため、通念としての「ルネサンス」の名を冠すことについては異論もある。しかし、中世西ヨーロッパにおける最初の大規模な文化運動、また古典古代の学芸の存続として無視できぬ重要な意義を有する。 また、ブドウ栽培をガリアの地に広めたのも彼だといわれている。
800年のクリスマスにローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝として戴冠を受け(カールの戴冠)、西ローマ帝国の皇帝となった(在位 800年 - 814年)。
フランスのトランプでは、ハートのキングのモデルとされている。
[編集] 関連項目
|
|
|