エリック・ベルナール
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1989 - 1994 |
所属チーム | ラルース, リジェ, ロータス |
出走回数 | 45 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 10 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1989年フランスGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1994年ヨーロッパGP |
エリック・ベルナール(Éric Bernard, 1964年8月26日 - )は、フランス出身の元F1ドライバーである。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] F1以前
ポール・リカールのウィンフィールド・レーシングスクール出身。1983年にフォーミュラ・ルノーのスカラシップを獲得し、翌1984年から同シリーズに参戦。2年目の1985年にはチャンピオンとなり、1986年からはフランスF3にステップアップ。1987年までの2年間でそれぞれシリーズ5位・2位の成績を収めた。
ジャン・アレジ、エリック・コマスと共に、それぞれの頭文字を取って「フランスの若手有望株・ABC」と呼ばれ、将来を期待された。
1988年からは国際F3000にステップアップし、2年間活動。しかし、あまり目立った活躍は残せなかった。
[編集] F1
[編集] ラルース時代
1989年中盤、ヤニック・ダルマスの後任としてラルースのシートを獲得。デビュー戦となった地元の第7戦フランスGPでは、予選15位から11位完走を果たすが、続くイギリスGPではリタイヤ。そしてこの後、ミケーレ・アルボレートにシートを譲る結果となり、ベルナールの初年度は2レースのみの参戦となった。
1990年には再びラルースから参戦、鈴木亜久里のチームメイトとなる。第4戦モナコGPで6位に入り、初入賞。その後は第8戦イギリスGPで4位、第10戦ハンガリーGPで6位と計3度入賞。亜久里と共に活躍し、チームをランキング6位に導いた。
しかしシーズン終了後、犬猿の仲として知られていたリジェチームからクレームが付き、チームとしては全ポイントを抹消される結果となる(ドライバーズポイントは抹消されず)。これによってFIAから支給されるはずだった資金がゼロになり、チームの資金難が深刻化してゆく。
そのような状況で迎えた1991年は亜久里共々苦しいシーズンを強いられ、完走は2回。第6戦メキシコGPでの6位入賞以後、一度も完走出来ず、7回(うち6回連続)のリタイヤと2度の予選落ち。第15戦日本GPでは予選中のクラッシュで骨折、最終戦を欠場する結果となり、以後暫くリハビリ生活を強いられることになる。
このクラッシュでは、サーキットの中でも低速区域であるヘアピンで起きたにもかかわらず、モノコックに深刻な損傷が発生。チームの資金難から、マシンの強度に問題があったのではとも指摘された。
[編集] リジェ、ロータス時代
1993年はリジェのテストドライバーとなる。補欠要因としても登録されていたが、レースへの出走機会は無かった。
翌1994年は正規ドライバーとして3年ぶりにF1に復帰、第9戦ドイツGPでは、26台中18台がリタイヤする波乱のレースを生き残り、3位に入賞。最初で最後となる表彰台を獲得した。しかしシーズンを通して、速さ・安定感共にルーキーのオリビエ・パニスに押され、予選ではパニスに3勝10敗、獲得ポイントでも差をつけられる格好となった。ベルナールが3位に入ったドイツGPでも、パニスはその前である2位に入っていた。
第14戦ヨーロッパGPにて、ジョニー・ハーバートとのトレードという形でロータスに移籍。しかしラスト2戦はミカ・サロにシートを奪われ、同チームからの参戦は1レースだけに留まった。翌年以降、ベルナールがF1でシートを獲得することは無かった。
[編集] F1以降
その後はFIA-GT選手権、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)、ル・マン24時間耐久レースなどに参戦。