フォーミュラ3000
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フォーミュラ3000(Formula 3000、F3000)は、自動車レースの1カテゴリーで、FIAが定義するフォーミュラカー(オープンホイール)による四輪レースのうち、F1の直下に位置するカテゴリーである。
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[編集] 概要
F1の下位カテゴリーであったF2がワークスエンジンの開発競争激化などによる費用高騰から、それに変わる物として、F1のレギュレーションの変更により使われなくなった、かつてF1で一時代を築いたフォード・コスワースDFVエンジンの再利用し、3000ccV8エンジンで回転数を9000回転に制限などの方法でコスト低減されたカテゴリーとして1985年に再編成された。たがシャーシー、エンジンの多数のメーカーの参入により後にコストが急騰。その為1995年にレギュレーションの変更を行う。その結果1996年よりシャーシはローラ、エンジンはザイテックのV8・3000ccのワンメイクフォーミュラへと変更になった。(タイヤは1986年よりエイボンのワンメイク)
2004年まではFIAが直轄する世界選手権の国際F3000選手権(ヨーロッパで行われるF1開催と併催)が行われていたが、年々エントリーが減少しており、F1へのステップアップカテゴリーとして機能しているとは言い難かった。現在は数カ国で国内選手権が行われている。
[編集] ジンクス
国際F3000のチャンピオンになったドライバーは、F1ではチャンピオンになれないというジンクスがあり、レースファンの間ではしばしば話題となる。
この話は、ヨーロッパF2時代からあり、事実としてヨーロッパF2、国際F3000ともに、そのチャンピオンドライバーはまだ1人もF1世界チャンピオンになっていない。国際F3000チャンピオンの中からはF1における優勝ドライバーもなかなか現れず、チャンピオンを獲得したドライバーで初めてF1で優勝を果たしたのは1995年カナダGPにおけるジャン・アレジである。アイルトン・セナを筆頭にF3で目覚しい活躍をした若手ドライバーは飛び級でF1にステップアップする傾向があり、F1直下のカテゴリーチャンピオンであっても必ずしも将来が約束されていた訳ではなかった。
国際F3000でチャンピオンを逃したものの、F1でチャンピオンを獲得した者としてはデイモン・ヒルとフェルナンド・アロンソの二人がいる。なお、ミハエル・シューマッハはドイツF3チャンピオンからF1界入りしたが、後述の全日本F3000選手権に1戦のみスポット参戦している。
[編集] 全日本F3000選手権
日本でもかつて1987年~1995年まで全日本F3000選手権として開催されていた。
国際F3000より2年遅れて1987年に全日本F2に取って代わった。JAF(日本自動車連盟)は、1987年の全日本F2選手権にF3000マシンの混走を認めたが、いざ蓋を開けると、参加車両が全てF3000車両であり、統括者と参加者の思惑が違った形でシーズンが開幕された、厳密に言うと1987年に全日本F3000選手権は存在せず、全日本F2もチャンピオン該当者なしという形となる。
翌1988年に正式に全日本F3000選手権として開催されるようになった。エンジンは、非過給3000ccのV型8気筒まで、9000回転以上回らないようにリミッター装着が義務付けられ、約450馬力前後を発生(最終的には約500馬力まで発生)。 参加メーカーは、無限、フォード・コスワース、ジャッドなどでいずれもV型8気筒を採用。シャシーは、マーチ、ローラ、ラルト、レイナードといったヨーロッパの量産コンストラクターが主流で、日本の童夢、ムーンクラフトも参戦し、1994年には純国産シャシーでタイトルを獲得している。タイヤは、ワンメイクを採用せず、ブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマタイヤの3メーカーが参加。国際F3000でまだバイアスタイヤが主流だった時代、日本では早くからラジアルタイヤを各メーカーが投入したことから、その為グリップ力が国際F3000より強力でよりF1に近いカテゴリーとなる。
全日本F3000は1980年代後半のF1ブームとバブルの好景気が重なった事と、若手外国人ドライバーの多数参戦によって驚異的な充実振りを見せ、片山右京やエディ・アーバイン、ハインツ=ハラルト・フレンツェンのようにF1にステップアップしていったドライバーも多数生まれた。しかし、バブル景気が崩壊し、好景気時の地固めを怠ったツケが回り、次第に参加台数の減少、観客の減少につながって尻すぼみになっていった。また、国際F3000がワンメイクになったことで、独自性を見出す事を進める形で、1995年でF3000を廃止。フォーミュラ・ニッポンに移行する事となった。