ジャン・アレジ
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1989 - 2001 |
所属チーム | ティレル, フェラーリ, ベネトン, ザウバー, プロスト, ジョーダン |
出走回数 | 202 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 241 |
表彰台(3位以内)回数 | 32 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 4 |
F1デビュー戦 | 1989年フランスGP |
初勝利 | 1995年カナダGP |
最終勝利 | 1995年カナダGP |
最終戦 | 2001年日本GP |
ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日 - )は、フランス人レーシングドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
フランスのアヴィニョン生まれ。両親はシチリア出身のイタリア人のため、イタリア語名ではジョヴァンニ・アレージ(Giovanni Alesi)となる。実家は自動車修理工場で、アレジは小さい頃から工場の敷地内でシトローエン・2CVやルノー・5を運転して運転を覚えていった。時には激しくやり過ぎて横転したこともあったという。17歳の時カートレースを始め、1987年にフランスF3選手権のチャンピオンとなる。国際F3000選手権にステップアップし、全日本F3000選手権にもスポット参戦した。
[編集] F1デビュー
1989年、F3000チームEJR(エディ・ジョーダン・レーシング、後のジョーダン)へ移籍。F1フランスGPでティレルがキャメルのスポンサードを受けることになり、同じくキャメルの支援を受けるEJRのアレジに声がかかり、移籍したミケーレ・アルボレートの代役としてF1デビュー。そのレースでいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びる。この年は国際F3000を優先し、チャンピオンを獲得。F1でもフランスGP以降4位・5位に入賞してチームへ貢献した。
[編集] 衝撃の活躍
翌1990年、ティレルからF1フル参戦(チームメイトはこの年ロータスより移籍した中嶋悟)。操縦性に優れるマシンとピレリタイヤを武器に、果敢な走りでトップドライバー達に挑みかかった。開幕戦アメリカGPではスタートでいきなりトップに立ち、後方から迫る王者アイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナーで鋭く抜き返す。再び抜かれ2位に終わったが、その大バトルで一躍脚光を浴びた。その後のモナコGPでも、ゲルハルト・ベルガーを抑えて2位を獲得した。
さっそく将来のチャンピオン候補として争奪戦が始まる。まずウィリアムズと仮契約したが、幼少より憧れていたフェラーリからも誘いを受ける。2重契約問題で揉めた末、ウィリアムズから契約を買い取る形でフェラーリ入りの夢が実現した。
[編集] フェラーリでの奮戦
1991年にフェラーリ入りし、アラン・プロストのチームメイトとなる。母国の大先輩の下で経験を積み3位3回を獲得したが、チームは成績低迷で混乱。プロストの解雇により、アレジはフェラーリのエースとしての重責を担うことになる。翌年はイヴァン・カペリとコンビを組んだが、チームはさらに低迷。マシンの差を腕で補い、雨中のレースなどで健闘したものの優勝からは遠ざかった。
1993年からの3年間は、ベルガーとの息の合ったコンビでフェラーリの再建に尽くした。アレジは優勝まであと一歩で足踏みしていたが、1995年のカナダGP、ミハエル・シューマッハのマシントラブルでトップに立ち、F1通算92戦目でようやく初優勝を果たした。早くから逸材といわれながら、当時としてはティエリー・ブーツェンの96戦に次ぐ2番目に遅い初優勝であった。一方で、「F3000チャンピオンはF1では優勝できない」という当時のF1界のジンクスを打ち破る勝利でもあった。
[編集] 移籍と引き際
フェラーリの復活に貢献したものの、チームは1996年にミハエル・シューマッハを招聘し、結果的に1対2のトレードの形でアレジとベルガーはベネトンへ移籍した。ベネトンでもコンスタントに成績を残したが、チャンピオン争いには加われず、2年間の在籍後に離脱。その後はトップチームから声がかからず、ザウバー(1998年)、プロスト(1999年~2001年)、ジョーダン(2001年第13戦以降)などの中堅チームを転々とした。
ジョーダンでは2002年の契約延長を望んだが、チームがホンダエンジンの供給を巡り佐藤琢磨との契約を選んだため、最終戦日本GP直前にF1からの引退を表明。ラストレースは新人キミ・ライコネンのコースアウトに巻き込まれる形で終えた。 この年(2001年)のアレジは、リタイアはこの最終戦のみでプロスト~ジョーダン移籍後全レースを完走していた。
[編集] F1後
2002年よりドイツツーリングカー選手権(DTM)に活動の場を移し、メルセデス・ベンツチームのワークスドライバーとなったが、顕著な成績は得られなかった。2006年シーズンを最後にDTMからも引退。その片ら、日本のディレクシブのシニアエクゼクティブアドバイザーに就任し、マクラーレンのセカンドチーム立ち上げを目指し、F1関係者との折衝に当たった。しかし、FIAの承認を得られず、また、ディレクシブのモータスポーツ活動撤退により、計画は実現に至らなかった。
[編集] 評価
F1デビュー以前はエリック・ベルナール、エリック・コマスと共にフランスの若手有望株と呼ばれた。当時は荒削りなアレジよりコマスの評価が高かったが、F1で成功できたのはアレジのみであった。
F1ドライバーとして卓越したマシン操縦力を持っており、スライドした時のコントロールなどは天下一品。タイヤの使い方に巧く、磨耗したタイヤでライバルが苦しむ中上位に残る事も多かった。雨のレースに強く、濡れかけた路面をドライタイヤで走るのが得意だった。また、スピンした時のリカバリーは決まって派手にタイヤスモークをあげるスピンターンを決めていた。そのアグレッシブな走りで「フェラーリ伝説のドライバー、ジル・ヴィルヌーヴの再来」と呼ばれ、特にティフォシからの人気は凄まじいものがあった。
しかし、不幸にもアレジがF1で戦ったのは「ただ速く走る」から「総合力で勝つ」時代への転換期であった。ドライバーにはチームを束ねるリーダー的資質と開発能力が求められ、アレジのような純粋なファイターでは結果を得られなくなった。マシン自体もブレーキを遅らせたドライビングスタイルでは結果が出しづらいようになっており、様々な意味で「10年遅く生まれてきたドライバー」という評価もある。また、勝利に近い位置にいながら、マシントラブルなど不運に泣く場面も多かった。ベネトン時代以降はその熱き走りを封印し、マシンをなだめながら粘り強く完走へ導く走りを続けざるを得なくなっていた。ただ、その熱きドライビングスタイルに魅了されたファンは今でも多く、『記録よりも記憶に残る』ドライバーの一人として挙げられる。
[編集] トリビア
- フランス生まれ(イタリア系フランス人)ながら、シチリア人の熱い血を宿しており、良く言えば情熱的、悪くいえば直情的である。カッとなりやすい所から「大きな子供」と呼ばれたこともあった。
- 少年時代はジル・ヴィルヌーヴが憧れのドライバーで、自宅の部屋には等身大のポスターが飾ってあったという。1992年には、チームに頼み込んでジルと同じカーナンバー"27"を得た。また、エリオ・デ・アンジェリスも尊敬しており、自身のヘルメットにアンジェリスと同じ赤と黒のストライプをデザインしている。
- コーナリング中、ヘルメットをコーナーのイン側へ傾ける癖があった。ステアリングの握り方も独特で、円の頂に近い、時計の針に例えるなら「11時5分」の位置を握っていた。
- 1992年にローレンス夫人と結婚し長女シャルロットが生まれるが、後に離婚。離婚前から日本の女優後藤久美子を愛人にしていたが、今も入籍していない。後藤がアレジの熱心なファンで、日本のファンクラブパーティーで知り合ったことから交際するようになったという。1995年の初優勝時には日本向けのインタビューで交際宣言を行い、しばしワイドショーを賑わした。その後3子を設け、TOYO TIRESのCMにも仲良く出演している。親日家であり、度々日本を訪れバラエティー番組にも出演している。
- アラン・プロストは結婚式の立会人を務めるなど、公私共に友人であった。プロストチームでも関係は保たれたが、2001年のカナダGPでアレジが高価な無線器具の付いたヘルメットを観客に投げ与えたことにプロストが怒り、シーズン中チームを去ることになってしまった。
- 片山右京はフランスF3時代に競い合った旧友。ともにジル・ヴィルヌーヴを敬愛する突進型ドライバーである。
- ミハエル・シューマッハとは家族ぐるみで親交があり、シューマッハ夫妻とアレジ・後藤ペアがベビーカーを並べてショッピングしている光景がパパラッチされたこともある。アレジが日本GP前のイベントで突然引退表明した際、同席したシューマッハは驚きを隠せなかった。
[編集] CM
- パイオニア“カロッツェリア”サテライトクルージングシステム(GPSカーナビ) 1991年~1992年
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