エーリッヒ・ミールケ
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エーリッヒ・ミールケ(Erich Fritz Emil Mielke, 1907年12月28日 - 2000年5月21日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家。
東ドイツの秘密警察・諜報機関である国家保安省(シュタージ)の長官(国家保安相)を長年に渡って務めた人物である。(在任期間1957年10月31日 - 1989年11月3日)
1921年にミールケはドイツ青年共産団に入団した。1925年にはドイツ共産党に入党し、党の機関紙『ローテ・ファーネ』(赤旗)の記者として働き始めた。同時期にドイツ共産党の準軍事組織である「ローテフロントケンプファーブント」(Roter Frontkämpferbunt・和訳すると「赤色戦線戦士同盟」。また単に「ローテフロント・Roter Front」と呼ばれることも多く、この場合は「赤色戦線」と訳される。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の突撃隊に相当するドイツ共産党の私兵集団である。)にも加入している。1931年、ベルリンでの共産党のデモ行進時に2人の警察官を殺害し、ベルギーに逃亡。その後、ソビエト連邦に亡命した。ここで、ミールケは高く評価され、コミンテルンの学校に入校した。1936年、ミールケは、内戦中のスペインに派遣された。フランコ軍の勝利後、他の国際旅団兵士と共にフランスに逃れ、フランスがドイツに降伏した後はレジスタンス運動に協力していたとも言われる。
1940年にモスクワに逃れる(?)。1945年にドイツに帰国し、警察機関の創設でソビエト占領当局に協力した。
(註・第二次世界大戦前後のミールケの足跡には謎が多い。フランスでレジスタンス運動に協力などはしておらず、ドイツ国内で偽名を使って潜伏していたとの説もある。)
1949年のドイツ民主共和国建国後は国家保安省(1950年創設)の中枢的な人物として勤務し、1957年にはその長官となった。当時、彼には「恐怖のマスター」という仇名が付けられた。特に彼の命令により、東ドイツの国境警備隊は、ベルリンの壁や東西ドイツの国境線を越えて西側に亡命しようとする難民に対して発砲した。(註・亡命者に対する発砲命令を出したのはミールケではないとの異説もあり、真偽の程は詳らかではない。)
1971年、シュタージの策動の下、ヴァルター・ウルブリヒトが解任され、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーは、感謝の印にミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。
ドイツ統一後の1992年、亡命者の射殺命令に対して、彼はホーネッカーと共に法廷で裁かれることとなった。しかし、高齢と病気を理由に責任を逃れることができた。1993年、ミールケは6年の刑を言い渡されたが、罪状は1931年の2人の警察官の殺害に対するものであった。1995年、釈放され、年金生活に入った。ミールケは、レジスタンス参加者、ナチズムの犠牲者として、1,000ドイツ・マルクの年金を受け取ることができたが、シュタージ時代に蓄えた38万ドイツ・マルクの銀行口座は凍結が解除されなかった。
2000年5月、ミールケは死去し、6月10日、社会主義者が葬られているベルリンの墓地に埋葬された。
[編集] 関連項目
[編集] 参考・関連文献
- 秦郁彦編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』(東京大学出版会、2001年)
- 関根伸一郎『ドイツの秘密情報機関』(講談社現代新書、1995年)
- 河合純枝『地下のベルリン』(文藝春秋、1998年)
- アナ・ファインダー 著/伊達淳 訳/船橋洋一 解説『監視国家』(白水社、2005年)
- T・ガートン・アッシュ 著/今枝麻子 訳『ファイル』(みすず書房、2002年)
- 桑原草子『シュタージの犯罪』(中央公論社、1993年)