小アグリッピナ
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小アグリッピナ(Agrippina Minor, 西暦15年11月6日 - 西暦59年3月)。正式の名前はユリア・アグリッピーナ(Julia Agrippina)、後にユリア・アウグスタ・アグリッピーナ(Julia Augusta Agrippina)と名乗る。
皇帝ネロの母親として知られている。父はゲルマニクスと母は大アグリッピナ。兄には3代皇帝カリグラがいる。
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[編集] 生涯
現在のケルンに生まれる。父親のゲルマニクスはローマのゲルマニア軍団の中で英雄であったが、西暦19年に没する。以来、母アグリッピナのもとで暮らす。
[編集] ティベリウス時代
西暦28年、彼女は最初の結婚をする。相手は帝位継承者の一人、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(大アントニアの一人息子)で西暦32年にコンスル職に就いた人物)。結婚したものの母が西暦29年にパンダリア(現在のベネトーネ)に流罪、西暦33年に皇帝ティベリウスより処刑されるなど薄幸な前半生を送る。
西暦37年12月15日に息子ルキウスを出産する。この息子が−名前をルキウス・ドミティウス・アエノバルブスと名付けられたが−後にローマ皇帝になるネロである。
[編集] カリグラの治世
ネロの出産の前後にティベリウス死去、カリグラが帝位に就く。彼女は結婚している身ではあったが、複数の説によると妹ドルシッラと同様にカリグラとは近親姦の関係だったと言われている。アグリッピーナがかなりオープンにカリグラの周囲に顔を出していた事は事実ではあるが、この時代の上流階級は、反駁するのが難しい事を理由に何かあると近親姦の罪状で告発される事が多かったという事も留意しなくてはならない。しかしながら、カリグラから疎まれるようになり一時期流罪にさせられた。
[編集] クラウディウスの治世、そして皇妃へ
西暦41年にそしてカリグラが暗殺、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就く。彼女は流刑地から戻り、裕福な元老院議員のサルスティウスと二度目の結婚をする。夫には数年後に先立たれるが、二度目の結婚で彼女は夫の不動産を手に入れた。
クラウディウスの妻メッサリーナが放蕩の末に自殺を命じられると、彼の解放奴隷で一手に帝国業務の雑務を引き受けていたパッラスの手助けにより擁立され、西暦49年に結婚、皇帝の妃となる。この結婚の目的は自分の息子ネロを帝位につける事であり、そのためにローマの法律でも禁止されていた親戚関係にあたる叔父のクラウディウスと強引に結婚した。
クラウディウス自身も有能な政策家ではあったが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない(あるいは忙しすぎてできない)男だったので、彼女が言われるままに彼女に「アウグスタ」の称号を与えたりした(今まで、この称号が生前に皇帝から下賜される事はなかった)。彼女が軍事にまで口を出すので、皇妃は皇帝と同じ権威があると勘違いしてしまうケルトの族長もいたと言う。
また、この時期に彼女は自分の野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な布石を置いている。当時コルシカに島流しになっていたセネカをローマに戻しネロの側近として登用、後にネロの軍事的な基盤として近衛軍団に注目し、同じくネロの側近としてブッルスを取り上げた。またクラウディウスに働きかけネロを養子にした反面、彼の実子ブリタニクスを孤立化させるなどの陰謀も行った。そして西暦55年、クラウディウスが毒キノコで死去、ネロがローマ皇帝となる。クラウディウスの死因については、古代ローマに限らず現代の歴史家も、アグリッピナが暗殺したのではないかとも指摘している。
[編集] ネロの時代、そして暗殺
ネロを帝位につけた後、アグリッピーナは政治に色々と口出しようと試みる。しかし彼女の横柄な干渉は当時皇帝として独立心が芽生えてきたネロとの間に確執を生み、やがて嫌われて皇宮から蹴りだされ、最後にはネロの命令で暗殺されてしまう。
ネロはアグリッピナとともにナポリに旅行し近郊のバイエアの別荘で母をもてなした。アビリッピナがバイエアとはナポリ湾をはさんで数キロのパウリの自分の別荘にもどることになると、ネロは豪華な船を用意しナポリ湾を遊覧して帰るよう勧めた。息子のノ提案にアグリッピナも従い陸路で帰る予定をやめネロが用意した船で帰ることにした。
ところが、この船は壊れやすいつくりになっており、船が湾の半ばに差し掛かると壊して沈没させる計画であった。ネロは母后を溺死させようとしたのである。しかし、この計画はアグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗する。アグリッピナは九死に一生を得た頃伝える使者をネロの元に派遣するが、ネロは使者が短剣を所持しているのを理由に、アグリッピナは刺客を送り込んだと罪を着せる。皇帝暗殺の容疑をかけられたアグリッピナはパウリの邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。
殺されるときに、近衛兵たちに向かって、アグリッピナは、股(あるいは腹)に指をさし「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放ったという。
[編集] 後世の評価
- アグリッピーナの評価は、周りにネロ、カリグラと個性的な皇帝がいた事、また夫殺しの疑惑もあり、あまりよい評価は与えられてはいない。ただこの事は無能な母親であった事を意味せず、幼い息子の教育役に文人セネカを登用したり、息子の軍事的基盤として親衛隊に注目した事にも見られるように政治的な人選に関しては卓越していた。また当時のローマ時代の女性には珍しく回想録を書いたりなどと非常に教養ある人物であった。
[編集] トリビア
- アグリッピーナコンプレックスの語源としても知られる。
- ドイツの都市ケルンは「コローニア・アグリッピナ」(COLONIA AGRIPPINA)謂い、彼女に因む。