オホーツク文化
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オホーツク文化(オホーツクぶんか)は、5世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた文化である。海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていた。オホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについて、意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。
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[編集] 時代と分布
オホーツク文化の発生地は樺太南西橋と北海道北端で、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。遺跡は海岸そばに限られ、内陸には存在しない。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。
[編集] 生活
オホーツク人は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣狩猟に重点があった。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられている。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンを、網を用いて大量に漁獲した。アザラシ、オットセイ、トド、アシカも冬に得られた。夏にはカサゴなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵や模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっている。
豚と犬を飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩った。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。
集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴式で、何十人も収容できる大型の住居と、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。大規模住居は中心集落で見られる。オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の一部に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である。
道具としては、オホーツク式土器、石器、骨角器、木器がみられる。本州からの交易で入手した蕨手刀が副葬品として見つかっているが、実用品として普及するほどの数はなかったらしい。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。
死者は基本的に屈葬された。しかし、目梨泊遺跡の人々は伸展葬の伝統を持ち続けた。
[編集] 起源と末裔
オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化、トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。
オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている。
[編集] 文献史料
日本書紀には、7世紀に阿倍比羅夫が遠征航海の途上、大河の河口で蝦夷と粛慎の交戦を知り、付近の島で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈だが、確証はない。
[編集] 主な遺跡
[編集] 参考文献
- 野村崇・宇田川洋編『続縄文・オホーツク文化』(新北海道の古代2)、北海道新聞社、2003年、ISBN 4-89453-262-X