国後島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国後島(くなしりとう) (ロシア語地名、о.Кунашир)は、北海道知床半島の東にあり、千島列島(ロシア語地名、クリル諸島 Курильские острова)の最南に位置する島。 この島に先住していたアイヌ人は アイヌ語でクナシルと呼んでおり、ロシア語も国際標記もこれに従っている。
現在、国後島はロシア連邦の実効支配下にあって、 サハリン州南クリル管区に属している。 2007年4月1日時点に於いて日本の施政権は全く及んでいない。しかし、北方諸島の一つとして、 日本固有の領土と日本政府は主張し、領有権を主張し続けている。日本の制度上は、 北海道根室支庁に所属し、国後郡泊村と留夜別村がおかれている。
目次 |
[編集] 概要
面積1497.56 km²、長さは123kmに及ぶ細長い島。北海道とは根室海峡(ロシア語地名クナシルスキー海峡 Кунаширский пролив)で隔てられている。北東には国後水道(ロシア語地名エカチェリーナ海峡 пр. Екатерины)を隔てて択捉島が連なっている。また、南東には、南クリリスキー海峡(Южно-Курильский пролив、日本語には該当地名なし)を隔てて、色丹島と歯舞諸島 (ロシア語では、両者を合わせて マラヤー・クリルスカヤ列島Малая Курильская гряда)が平行している。
主な火山として、爺々岳 (ロシア語地名、チャチャ火山Влк Тятя、1819m)、ルルイ岳(ロシア語地名も同じ、г.Руруй、1485m)、泊山(ロシア語地名、ガラブニノ火山влк. Головнина、541m)、羅臼山(ロシア語地名、メンデレーフ火山влк. Менделеева、887m)があり、一部は噴気をあげている。
島全体の人口6,801人(2006年現在、ロシア統計より)。中心集落である古釜布(ふるかまっぷ、ロシア語地名、ユージノクリリスクЮжно-Курильск=「南千島の町」の意)の2006年の人口は、6,081人。
[編集] 歴史
[編集] アイヌの領域への侵攻による島の領有
江戸時代には、北海道本島から千島南部に長く先住していたアイヌ人の領域への侵攻をすすめた松前藩が、商人飛騨屋に国後島の場所の運営を行わせていた。飛騨屋はアイヌ人を酷使して経営を行い、アイヌ人に対する和人の暴行や強姦が繰り返されていた。耐えられなくなったアイヌ人はついに、1789年5月、国後島泊の運上屋(交易拠点)を襲撃。これは対岸の、根室・標津方面にまで広がり、大規模な国後目梨の蜂起に発展した。松前藩は、260名の鎮圧部隊を送り込み、首謀者のアイヌ人37名を全員処刑して、蜂起は鎮圧された。
先住民に対するこのような抑圧をつうじて、日本人による国後島領有は確立されてゆき、それは、1855年の日露和親条約で国際的に確認された。第二次世界大戦前は、北海道本島からの船が発着した泊(ロシア語地名、ガラブニノГоловинино)に国後島全体を管轄する官庁や神社がおかれ、中心集落であった 。島の沿岸には、全域にわたり80以上もの漁業集落が点在しており、産業としては、コンブ・サケ・カニなどの漁獲高が多く、缶詰製造で栄えた。
[編集] ヤルタ協定による日本領域分割と、ソ連の国後島占領
1945年2月のヤルタ協定において、米英ソの3大連合国の間で、日本の主権下・勢力圏にあった領域を戦勝国が分割する取り決めがなされ、南樺太と千島列島についてはソ連が獲得すると取り決められたことを受けて、当時のソビエト連邦軍が侵攻。9月2日に占領のうえ、1946年2月2日には一方的にソ連領土に編入してしまった。
戦後のソ連は、日本に近すぎる泊を嫌い、ユージノクリリスク( Южно-Курильск=「南千島の町」の意)という新たな中心集落を、日本時代の漁村であった古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設した。
ソ連占領後は、日米安保条約のもとにおかれた日本に対峙する共産圏の最前線となり、軍事基地や国境警備隊基地が多く配置され、辺境地として労働条件もソ連本土に比べ優遇されていたため、ソ連末期の1989年にも7766人が居住していた。
[編集] ソ連崩壊後の現状
ソ連崩壊直後は、経済不振と1994年に発生した北海道東方沖地震の影響から、人口は減少傾向にあった。このころ、日本政府のロシアへの援助として、国後島に、港湾整備、ディーゼル発電所建設、艀の供与、ロシア人避難所としての日本人とロシア人の友好の家(通称:ムネオハウス)の設置などがなされ、国後島民の日本への感謝の気持ちは強まっていた。
だが、鈴木宗男代議士失脚後は、このような援助は絶たれ、それと入れ替わるように、ロシア連邦政府が近年のめざましい経済成長に乗ってこの島にも人口増に向けたテコ入れをはじめた。2006年8月に策定された、2015年を目標年次とするロシア連邦政府の「クリル諸島社会経済発展計画」では、立ち遅れている交通インフラ整備や地熱発電所設置、観光開発などに重点的な投資がなされる予定で、古釜布港を改装し、大型船が横付けできる設備へと増強する計画がある。
現在の国後島の住民は、ほとんど中心集落の古釜布とその周辺に集中して居住しており、それ以外の大半は無人地帯となっている。最北の集落は、近布内(ロシア語地名、オトラダОтрада)であり、留夜別村の区域に、現在住民は誰もいない。島の60%はロシア国立クリリスキー自然保護区に指定されており、民間人の立ち入りが規制されている。このため、原初的自然がよく保全されており、2005年に知床半島が世界遺産に指定された際には、 国際自然保護連合 (IUCN)から、国後島と知床半島をあわせ、「保全の促進を(日露)両国で同意することが可能であれば、広範な『世界遺産平和公園(World Heritage Peace Park)』として発展させる」という提言が行われた。
[編集] 交通アクセス
[編集] 北海道本土から国後島
戦前は、根室から国後島最南の泊村まで定期の船便があったが、戦後は、北海道本土から国後島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本土から島に直接渡る場合は、「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、古釜布に入港する。「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると、国際航路を通行する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げ、また、古釜布に到着後は、ロシアの税関当局による入域審査を受ける。なお、このチャーター船の利用は、旧島民、その子孫、ならびに返還団体から推薦された者や報道関係者等に限定され、一般の日本人は自由に利用することができないため、南サハリン経由で渡ることとなる。
[編集] サハリン(樺太)から国後島
現在の国後島にアクセスする定期公共交通は、ロシアが実効支配する南サハリン(樺太)を拠点に運行されている。ユジノサハリンスク(豊原)ホムトヴォ空港からはサハリン航空のプロペラ機が週4便(月、木、土、日、いずれも午後発)、国後島メンデレーフ空港まで就航している。しかし、有視界飛行であるため、霧がかかりやすい夏季は欠航になりやすい。
また、コルサコフ(大泊)港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルフトディノフ」号が週2便出発している。この船は、月曜日にコルサコフを出帆、火曜日に択捉島、水曜日に色丹島ならびに国後島に寄港、木曜日にコルサコフ帰着、金曜日にコルサコフ発、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港、月曜日にコルサコフに戻るというスケジュールで、3月~12月まで運航される。一般の日本人・外国人が国後島を訪問するには、ロシアのビザでまず稚内または函館からサハリン(樺太)に渡り、ユジノサハリンスク(豊原)にて国後島への通行許可証を取得後、サハリンから空路または海路でアクセスすることになる。この方法は、国後島におけるロシアの主権に服する行為であるとして内閣が1989年以来自粛を要請しているが、この自粛要請に法的強制力は無い。
[編集] 国後島が見える街
対岸に位置する北海道本島の標津町、羅臼町からは国後島泊村を間近に見ることができる。ただし、国後島の北岸側には、別荘地(ダーチャ)を除けば集落は1つも無く、対岸に人家らしい影は見ることができない。夜間に時折、自動車のヘッドライトを見ることができる程度である。
国後島では、日本のテレビ放送(テレビ北海道は映らない。カラー方式はNTSC)が映り、一部の住民が日本のテレビを情報源にしている。大部分の住民は、ロシアのテレビ(カラー方式はSECAM)を視聴している。北海道放送(HBC)では、一時、北方諸島の住民向けに天気予報の画面にロシア語のテロップを入れていた。
[編集] 国後館(羅臼町)
戦前に国後島で教員を務め、後に羅臼町長になった故村田吾一氏の邸宅が、国後島返還に向けた記念館として開放されている。
[編集] 関連項目
千島列島 |
---|
北千島 占守島 | 阿頼度島 | 幌筵島 | 志林規島 | 磨勘留島 | 温禰古丹島 | 帆掛岩 | 春牟古丹島 | 越渇磨島 | 知林古丹島 | 捨子古丹島 | 雷公計島 | 松輪島 | 羅処和島 | 摺手岩 | 宇志知島 | 計吐夷島 | 新知島 | 武魯頓島 | 知理保以島 | 知理保以南島 | 得撫島 | |
南千島 択捉島 | 国後島 | (色丹島) | (歯舞諸島) |