カーチス・ルメイ
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カーチス・エマーソン・ルメイ | |
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1906/11/15 - 1990/10/1 | |
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生誕 | オハイオ州コロンバス |
忠誠 | アメリカ空軍 |
軍歴 | 1928 - 1965 |
階級 | General |
指揮 | Strategic Air Command USAF Chief of Staff |
戦闘 | 第二次世界大戦 - 太平洋戦争 |
賞罰 | 殊勲十字勲章 (Distinguished Service Cross) 殊勲章 (Distinguished Service Medal) 銀星勲章 (Silver Star) Distinguished Flying Cross Legion of Honor 勲一等旭日大綬章(日本) |
除隊後 | Candidate for U.S. Vice President |
カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月3日)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人。戦後は、空軍参謀総長まで登りつめた。戦略爆撃の専門家、東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦の立案者として知られる。
目次 |
[編集] 生い立ち
ルメイは1906年11月15日にオハイオ州コロンバス市で6人兄弟の長男として生まれた。父は職業を転々とする放浪者であり、母は教師であった。
地元オハイオ州立大学に進み、在学中に陸軍予備士官課程を修了、大学は中退し国境警備隊を経て陸軍に入隊した。幼少時代より飛行機乗りに憧れており、1929年にパイロット資格を取得し、その後爆撃飛行隊に所属した。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦開戦当初ルメイは無名の大尉であった。戦争はルメイに出世のチャンスを与え、中佐に昇進した。英国に渡り第8空軍の一員として、ドイツ爆撃を指示。絨毯爆撃の戦術で大きな打撃を及ぼし、その功績で1944年に少将となった。
その後、インド・カラグプルに司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任、対日作戦として重慶からの八幡製鉄所爆撃に携わった。
その後いくつかの爆撃作戦を経て、第21爆撃集団司令官に赴任し、グアムに移動した[1]。
[編集] 対日焦土化作戦の立案
第21爆撃集団司令官時代、ルメイは対日作戦として、日本の都市の無差別戦略爆撃を立案した。これは前任者の精密爆撃作戦が手ぬるい(効果が薄い)と判断したことによる。すなわち、高高度からの爆撃の標的破壊率が5%に過ぎなかったためである[2]。
この時ルメイが考案した日本本土爆撃の主なポイントは、次の4点である。
- 高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800メートル以下)からの爆撃とする。
- 爆弾は焼夷弾のみとし、最大積載とする。
- 搭載燃料を最小限とし、防御用銃座ははずす。
- 攻撃は夜間とする。
さらに、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼する専用焼夷弾を開発した。
このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。
[編集] 戦後
第二次世界大戦後、空軍中将に昇進し、その後戦略空軍司令官、空軍参謀総長を歴任した。
爆撃機開発の責任者としてヴァルキリー計画を指揮、当時の主力B-52爆撃機の後継機開発を指揮する[3]。
キューバ危機勃発時には、キューバ空爆をケネディ大統領に提案した(ただし却下された)。また、ベトナム戦争で北爆を推進した。
また日本の航空自衛隊創設に際して戦術指導を行なった。ルメイは戦略爆撃に精通し、また日本の防空体制の弱点(夜間防衛)を把握しているため、日本側には有益だったとされる[要出典][4]。
[編集] 叙勲と波紋
1964年その功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。これは参議院議員で元航空幕僚長の源田実の推薦によるものであった[5]。なお勲章は本来、授与に当たって天皇から渡されるのが通例であるが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。
ルメイは第二次世界大戦時に日本の都市に対する無差別戦略爆撃を立案・指揮者であることから、日本国内では叙勲に対する批判が根強くあり、国会でも社会党などを中心として反対論があった。批判が強い状況での叙勲の経緯については、さまざまな推測がなされている。なお、ルメイは叙勲について自ら進んで公表することはなかったという。
[編集] 退役後
1965年2月に退役。1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Part) の副大統領候補として出馬するが落選。1990年12月10日没。
1957年11月11日 KC-135による無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、年度優秀パイロットに贈られるハーモン・トロフィーを受賞している。
[編集] エピソード
あだ名は鉄のロバ(頑固者)。訓練が実戦で生死を分けると信じており、作戦と作戦の間に部下を徹底的にしごいている。寡黙で鬼のように厳しかったが、部下からは絶大な信頼を寄せられていた。
日本の空爆計画の初期には爆撃機の多くが目的地に達するまでに何らかの理由(故障、目的不測など)で途中で引き返す事が頻発に起こった。離脱にはあまりにも多様な理由が存在するためその原因がなんであるか不明であったが、後に真の理由が撃墜を恐れた隊員が何らかのこじ付けの理由を見つけていることが発覚。ルメイは即、自ら作戦の第一波に参加、正当な理由なく途中離脱をするものは厳罰に処すと宣言。離脱率は一夜にして激減した。
[編集] 評価
ルメイの行為は、多くの罪の無い民間人を殺戮したことに加え、貴重な文化財(寺院・仏閣・城郭など)を灰燼に帰す結果をもたらしたためにヘイウッド・ハンセルと違い、文化財研究家からは強く非難されている。
日本では、ルメイは残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている。しかし彼の立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求であるという。なお本人自身が「アメリカが敗戦するなら自分は戦争犯罪人として処せられる」と発言している。
[編集] 注釈
- ^ 第21爆撃集団司令官の前任者ヘイウッド・ハンセルは、既に武蔵野の中島飛行機武蔵野工場などへの精密爆撃を敢行していたが、その効果が薄いと判断した航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将自らの指示により、ハンセルは更迭、その後任としてルメイがグアムに着任した。
- ^ 当時ルメイの部下であったロバート・マクナマラ(後のアメリカ国防長官)によればルメイは標的の破壊と自軍の爆撃機の損失の比率に着目したただ一人の指揮官であった[要出典]。
- ^ 最終的に失敗し、現在もB-52は現役である。
- ^ 専守防衛の自衛隊に戦略爆撃の専門家の指導が有益かどうか議論の余地がある。
- ^ 源田実の推薦は、自身が米国政府の叙勲を受けたことに対する返礼であった[要出典]。
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