クラウディオ・ロペス
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男子 サッカー | ||
銀 | 1996 | サッカー |
クラウディオ・ハビエル・ロペス(Claudio Javier López、1974年7月17日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州・リオ・テルセオ出身の同国代表サッカー選手(FW)。
アルゼンチンと言うサッカー大国の代表選手であり、有力なクラブチームにその籍を置くため日本での知名度も高い。ちょこまかと素早く動き回るそのプレイから「ピオホ(Piojo = のみ、しらみ)」とあだ名される。また、幼少の頃は背が小さかった為ピッコロ= 小さい が変化したとも言われている。「ロペス」という姓はラテン語圏では極めて多いため「クラウディオ・ロペス」とフルネームで呼ばれることが殆どである。また、彼のユニフォームに書かれる名前も単に「LOPEZ」であることは少なく、「C. LOPEZ」、「LOPEZ C」、「CLAUDIO」である。2004年7月現在独身。178cm/77kg。
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[編集] プレイスタイル
利き足が左であることから、左サイドのウィングやミッドフィールダーをその役割とし、豊かなスピードで敵のディフェンスラインを切り裂く。カウンターからの得点シーンが極めて多い現代サッカーにおいて、彼のような高速アタッカーは起用方法が適切ならば素晴らしい能力を発揮する。タッチライン際を主な戦場としゴールゲッターへのアシストを求められることが多いが、それだけではなく中央に切れ込んでゴールをあげる能力にも長けている。弱点としては利き足の逆の右足でのキックが不得意なこと、調子の波が大きいことがあげられる。
[編集] 略歴
- 1974年
- 7月17日 アルゼンチン、コルドバ州のリオ・テルセオに生まれる。
- 1990年
- 地元のクラブ ウニベルシダ・コルドバでプロサッカー選手としてのキャリアをスタート。
- 1991年
- 同じアルゼンチンのラシン・クラブに移籍。
- 1995年
- ラシン・クラブで優秀なフォワードに順調な成長を遂げる。
- 5月13日 対 南アフリカ戦でアルゼンチン代表デビュー。
- 1996年
- 1995-1996シーズンを31試合13得点の優秀な結果で終える。
- アトランタ・オリンピックにアルゼンチン代表として出場、銀メダル獲得に貢献。
- 1995-1996シーズンオフ、スペインリーグのバレンシアCFに移籍。
- 1997年
- 1996-1997シーズン、バレンシアのレギュラーとしてプレイするが、移籍1年目を3得点の不本意な結果で終える。
- 1998年
- 1997-1998シーズン、2年目のバレンシアで期待通りの活躍を見せる。その活躍が認められアルゼンチン代表にも定着。
- W杯フランス大会、アルゼンチン代表の主力としてその全5試合に出場。チームはベスト8止まりだったがクラウディオ・ロペスのスピード溢れるプレイは世界に深く知れ渡る。なお、準々決勝でW杯通算100ゴールとなる節目のゴールをあげたのがクラウディオ・ロペスである。
- 1999年
- 1998-1999シーズン、バレンシアの完全なるエースとなり、好調であった昨シーズンをさらに上回る活躍でリーグでは21得点、さらにはコパ・デル・レイの優勝にも大きく貢献する。
- 2000年
- 1999-2000シーズン、バレンシアはUEFA CLでも躍進。クラウディオ・ロペスのスピードを活かしたカウンター攻撃で、欧州中のクラブを次々と撃破し準優勝と言う輝かしい結果を残した。
- 1999-2000シーズンオフには、イタリア・セリエAのラツィオに移籍。
- 2001年
- 2000-2001シーズン、ラツィオでの1年目は左膝靭帯損傷の怪我によりわずか16試合の出場・無得点に終わる。
- 2002年
- 2001-2002シーズン、怪我の癒えたロペスはチームのレギュラーとなり、持ち味のスピードはセリエAでも十分に通用したが、これまでのような得点は思うようにあげられずに苦しむ。
- 2002 FIFAワールドカップにアルゼンチン代表として出場。アルゼンチンは強豪らしからぬ戦いでグループリーグ敗退。大会後のテレビ番組でロペスはアルゼンチン代表のエース バティストゥータを「エースにふさわしくない」と非難、代表で長く一緒にプレイしてきたバティストゥータとの間に溝が生じる。
- 2003年
- 2002-2003シーズン、財政難のラツィオにありながらコッラーディとのコンビは冴え渡り、14ゴール(リーグ6位)12アシスト(リーグトップ)を記録。すばらしい活躍を見せる。
- 2004年
- 3月 故郷コルドバで祖父のドミンゴ・パオルッチが死去。ロペスは悲しみにくれる。
- 2003-2004シーズン、ラツィオでセリエAとUEFA CLの両方を戦い抜くが、ラツィオの財政難は続いておりチームから去る主力がいるなど前年のような快進撃とはならなかった。
- 2003-2004シーズン終了後にメキシコリーグのクラブ・アメリカに移籍。
- 12月 メキシコ・アカプルコの海で海水浴中、大波に飲み込まれ溺れる。救助隊員に助けられなんとか無事。
- 2005年
- 2005シーズン 後期リーグ優勝。CONCACAFチャンピオンズカップへの出場権を得る。
- 2006年
- 4月 CONCACAFチャンピオンズカップ優勝。FIFAクラブワールドカップへの出場権を得る。
- 12月 FIFAクラブワールドカップ出場のため来日。
- 2006年
- 1月 11年ぶりにラシン・クラブへ復帰。
[編集] クラブ歴
- 1990-1991 ウニベルシダ・コルドバ (ARG)
- 1991-1992 ウニベルシダ・コルドバ (ARG) → ラシン・クラブ (ARG)
- 1992-1996 ラシン・クラブ (ARG),2007-
- 1996-2000 バレンシアCF (ESP)
- 2000-2004 ラツィオ (ITA)
- 2004-2007 クラブ・アメリカ (MEX)
※ ARG=アルゼンチン, ESP=スペイン, ITA=イタリア, MEX=メキシコ
[編集] 代表歴(国際大会)
- 1996年 アトランタオリンピック (チーム成績:銀メダル)
- 1998年 W杯フランス大会 5試合出場1得点 (チーム成績:ベスト8)
- 2002年 W杯韓国・日本大会 3試合出場0得点 (チーム成績:グループリーグ敗退)
代表通算キャップ:54試合 得点:10得点 (2003年4月30日時点)
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
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