ジャン・トッド
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ジャン・トッド(Jean Todt, 1946年2月26日 - )は、F1のスクーデリア・フェラーリのチーム代表である。フランスのカンタル県Pierrefort出身。
[編集] 経歴
父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。
それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いていると見定めて後は、ドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1981年に引退するまでの期間に、プジョー・タルボ・スポールのラリーチームで世界ラリー選手権(WRC)への参戦を続けた。現シトロエン・スポール監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。
コ・ドライバーとして引退して後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T16が1985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を果たし、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功し、ラリー、ヒルクライム、そして1990年代にはル・マン24時間レースで監督としてチームを率いて1992年、1993年と連覇するなど、監督として大いに活躍し、「優勝請負人」と称されるようになった。
トッドはかねてF1での仕事を望み続けていたが、この頃のプジョーはF1への進出を決めかねていたため、スクーデリア・フェラーリからF1チームの監督を要請されたのを好機として、トッドはプジョーと別れ、1993年夏にフェラーリチームに加入した。
当時のフェラーリは低迷期で、チームは建て直しを必要としていた。ここでもトッドは、出足は鈍く徐々に、という形で動き、加入翌年の1994年ドイツGPにゲルハルト・ベルガーの手で優勝1回を遂げると、翌1995年もジャン・アレジによる優勝1回、と、劇的ではないが、徐々にチームの軌道を上向けていった。
1996年にミハエル・シューマッハが加入すると、翌年までに「戦略家」ロス・ブラウン、デザイナーロリー・バーンがそろい、この強力なトリニティにより、チームは劇的に強化され、フェラーリは1999年から2004年までコンストラクターズ(製造者)タイトルを6年連続獲得することとなるのである。
トッドは、フェラーリの社長ルカ・モンテゼーモロとともに、これらのフェラーリのチーム改革における立役者と考えられている。結果として、フェラーリは、F1チームの成績だけでなくフェラーリ本社の業績も上がり、エンツォ・フェラーリ死後において初めて黄金時代を享受することとなった。
2001年2月に、フランス政府からレジオンドヌール勲章(コマンドール)を、2007年1月にも、レジオンドヌール勲章(グランドフィシエ)を贈られた。
[編集] 噂
2006年の人事異動によりフェラーリ本社の最高経営責任者に就くことになったトッドだが、それ以前はFIA会長マックス・モズレーの引退に関連し、トッドがFIAの役員選挙に立候補するのではないかと噂されていたことがあり、当のモズレー自身、「トッドなら会長としても申し分ないだろう」という趣旨のコメントを発してもいた。
2000年頃のフェラーリの主要スタッフ、ジャン・トッド、ミハエル・シューマッハ、ロス・ブラウン、ロリー・バーン、パオロ・マルティネリ、いずれかの人物がフェラーリチームから離脱した場合、即座に他の人物の契約も解除できる契約になっていると言われていた。
[編集] 人物
2004年9月28日に、元ボンドガールのミシェール・ヨーとの婚約を発表した。息子であるニコラ・トッドはフェリペ・マッサのマネージャーである。
乗用車としてエンツォ・フェラーリを含め、フェラーリの現行車種は全車種所有している。