フェリペ・マッサ
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
車番 | 5 |
所属チーム | フェラーリ |
年 | 2002 , 2004 - |
過去の所属チーム | ザウバー |
優勝回数 | 2 |
通算獲得ポイント | 110 |
表彰台(3位以内)回数 | 7 |
ポールポジション | 3 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 2002年オーストラリアGP |
初勝利 | 2006年トルコGP |
2007年順位 | 6位 (3ポイント) |
(記録は2007年第1戦終了時) | |
フェリペ・マッサ(Felipe Massa, 1981年4月25日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身の現役F1ドライバー。
目次 |
[編集] プロフィール
祖父はイタリアのフォッジャ県チェリニョーラ(Cerignola)からの移民で、イタリア移民としては比較的最近の世代の家系に生まれた。
7歳の時にサーキットにピザを届けに行った際に見たレースに魅せられ、8歳の時にカートを始めた。
[編集] 初期の経歴
1998年にカートから四輪レースにステップアップし、フォーミュラ・シボレーのブラジル選手権に参戦。初年度にランキング5位を獲得し、翌年には10戦中3勝を挙げ選手権タイトルを獲得した。
2000年にはヨーロッパへ移り、フォーミュラ・ルノーのイタリア選手権、ユーロカップに参戦し、両選手権ともにチャンピオンタイトルを獲得した。
必然的に2001年についてはF3へとステップアップする機会を得たが、マッサはイタリアを中心に開催されているユーロF3000への参戦を選び、ここでも8戦中6勝を挙げるという圧倒的成績でいきなりチャンピオンを獲得した。
これによりザウバーからF1テストのオファーを受けることになる。これは、同年よりザウバーでデビューし、印象的な活躍を見せることによりいきなりマクラーレンとの契約を果たした、キミ・ライコネンの後釜としてのものであった。
テストで印象的な走りを見せたマッサはザウバーとの契約を勝ち取り、翌2002年にはザウバーよりF1参戦を果たすこととなる。
[編集] F1
- ザウバー
20歳312日という史上14番目に若い年齢(当時)でF1デビューを飾った。デビュー2戦目のマレーシアGPでいきなり6位入賞を果たすなど4ポイントを挙げてランキング13位につけるが、若さゆえかスピンなどのミスも多く、シーズン後半にはイタリアGPで得たペナルティが原因で、続くアメリカGPではベテランのハインツ=ハラルト・フレンツェンに1戦のみシートを譲るという事態にも陥った。
アメリカGPの次戦、最終戦である日本GPでは再びザウバーチームからの出走を果たしたものの、結果として2003年はフレンツェンにシートを奪われてしまい、フェラーリでルチアーノ・ブルティに代わってテストドライバーを務めることとなる。
2004年は、エンジン供給をしているなど密接な関係にあるフェラーリからの推薦で、ザウバーからF1復帰を果たす。この件について、ザウバーチームのオーナーであるペーター・ザウバーはマッサを押し付けられたことでフレンツェンとニック・ハイドフェルトをともにチームから追い出さざるを得なくなってしまったため、後に若干の不満を漏らしている。
この年はチームメイトのジャンカルロ・フィジケラにレースペースで引き離されることも多かったとはいえ、同年のベルギーGPでは自身決勝最高位の4位でフィニッシュ、その後の中国GPと地元ブラジルGPでは自身予選最高位の4番グリッドからスタートするなどの活躍を見せ、結果としてシーズンで12ポイントを挙げた(フィジケラは22ポイント獲得している)。
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2005年はかつてのチャンピオンであるジャック・ヴィルヌーヴをチームメイトに迎えることになったが、この年マッサはそれまでのやや荒い走りと打って変わり地味だが安定感のある走りを披露、約1年のブランクのあるヴィルヌーヴを上回るパフォーマンスを見せ、獲得ポイントでもヴィルヌーヴを上回った。
同時に、2006年に向けてスクーデリア・フェラーリとレースドライバー契約を結び、ルーベンス・バリチェロに代わりミハエル・シューマッハのチームメイトとなることが決まる。
- フェラーリ
フェラーリでのデビューはおおむね悪くないものとなり、開幕戦バーレーンGPでは2番グリッドを獲得し、第2戦マレーシアGPでは21番グリッドからのスタートだったにも関わらず安定した走りを見せ、結果、6位に終わったシューマッハ(14番手スタート)を上回る5位を得た。
第5戦のヨーロッパGP決勝では3位となり初の表彰台フィニッシュを果たし、第14戦のトルコGPで参戦4年目にして初ポールポジションを奪取、決勝でも安定した走りで初優勝を果たした。第17戦の日本GPではシューマッハを抑え、2度目のポールポジションを獲得したものの、結果は2位(優勝は予選5位のアロンソ)。
続く最終戦ブラジルGPでは、2戦連続のポールポジション獲得から自身2度目となる優勝を地元で果たし、チームメイトのシューマッハ(4位完走)の引退レースに花を添えた。また、この勝利はアイルトン・セナ以来13年ぶりのブラジル人ドライバーによるブラジルGP優勝でもあった。そのウィニングランではコースマーシャルから渡されたブラジル国旗を掲げて走る姿を披露した。
フェラーリにおける2年目となる2007年は、チームメイトとしてシューマッハに代わってキミ・ライコネンを迎える。
[編集] F1での年度別成績
(2007年第1戦終了時)
年 | 所属チーム | # | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | ザウバー | 8 | 13位 | 4 | 5位・1回 | 0回 | 7位・1回 |
2004年 | ザウバー | 12 | 12位 | 12 | 4位・1回 | 0回 | 4位・2回 |
2005年 | 12 | 13位 | 11 | 4位・1回 | 0回 | 7位・1回 | |
2006年 | スクーデリア・フェラーリ | 6 | 3位 | 80 | 1位・2回 | 7回 | 1位・3回 |
2007年 | 5 | 6位 | 3 | 6位・1回 | 0回 | 22位・1回 |
[編集] エピソード
- 2006年からはルーベンス・バリチェロに代わり、フェラーリのシートに座ることとなったが、これはかつてフェラーリのテストドライバーを務めたことに加え、マネージャーのニコラス・トッドがジャン・トッドの息子であることも関係あるのではないかという声がある。
- 2006年最終戦ブラジルGPのウィニングランではコースマーシャルからブラジル国旗を受け取って走ったが、当時のF1の規則では、(トラブルなどの止むを得ないものを除いて)ウィニングランの途中で車を止めることは禁止されていたため、レース後に審議対象となったが、結果として不問に付された。
[編集] 外部リンク
2007年のF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||||
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