ジュリウス・ニエレレ
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ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレ(Julius Kambarage Nyerere, 1922年7月19日-1999年10月14日)は、タンガニーカ及びタンザニアの政治家で初代大統領。タンガニーカの小部族、ザナキ族の酋長の家系に生まれる。現ウガンダのマケレレ大学卒業。
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[編集] 政治家へ
大学卒業後は教師として勤め、1949年-1952年にイギリスのエジンバラ大学に留学し、歴史学と経済学を学ぶ。帰国後再び教職に戻ったが、同時に政治活動を開始。1954年にはタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)の創設者の1人となり党首に就任する。ニエレレは社会的平等、民族間の平和維持、タンガニーカの独立を掲げ政治活動を行い、その支持は全土へと急速に広まった。1960年の選挙でTANUが圧勝すると、ニエレレは植民地首席閣僚となり事実上政権を担う。1961年にタンガニーカの独立が承認されニエレレは初代首相となったが、翌1962年初めに辞任。独立により組織拡大などに追われていたTANUの建て直しなど、党務に専念した。ちなみにTANUは、後にザンジバルのアフロ・シラジ党と合併しタンザニア革命党となり、現在に至っている。
[編集] 初代大統領
1962年、タンガニーカに大統領制が敷かれると、ニエレレは初代大統領に選出された。また1964年にタンガニーカとザンジバルが合併すると、連合国家の大統領となった。ニエレレは1967年のアルーシャ宣言に基づき、タンザニアの社会主義化をすすめ、中国との結びつきを強める一方、経済の自立化を図り農業の集団化を導入した。 しかしこの計画は農業生産高の激減、及び1970年代の原油価格高騰で挫折する。この失敗の責任を取り、ニエレレは1985年の大統領選出馬を辞退。アリ・ハッサン・ムウィニを後任とし大統領職を辞した。
[編集] その後
大統領辞任後も、1990年まではタンザニア革命党党首の座にあり一定の政治力を保持した。またアフリカ統一機構(現、アフリカ連合)設立の立役者の1人として、アフリカ諸国の内戦・独裁政治の終結に重要な役割を果たした(ウガンダのイディ・アミン政権等)。1999年に死去。
[編集] ニエレレの評価
彼の政策は一般にウジャマー村構想として知られる社会主義政策であり、アフリカ部族社会独自の社会主義的農業経営方法であるウジャマーを重視し、銀行や企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。その政策は確かに失敗したが、その後の彼の、アフリカの平和・平等・安定をうったえる真剣な姿から、彼を「アフリカの父」の1人として尊敬する動きも少なくない。ニエレレにはムワリムという愛称があるが、これはスワヒリ語で「先生」を意味するものである。