スタニスラフ・シュシケビッチ
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スタニスラフ・シュシケヴィチ(Станісла́ў Станісла́вавіч Шушке́віч,Stanislav Shushkevich,1934年12月15日 - )は、ベラルーシの政治家。ヤゲロォー大学教授。ベラルーシ最高会議議長(在任期間1991年9月18日から1994年1月)。ソ連崩壊後、独立したベラルーシの初代の国家元首。ロシア語、ポーランド語に堪能。
1934年ソビエト連邦白ロシア共和国の首都ミンスクに生まれる。交換教授としてポーランドのクラクフにあるヤゲロォー大学に勤務する。
1989年ソ連人民代議員大会代議員選挙にベラルーシ人民戦線派から立候補し当選する。デメンティ最高会議議長の下で第一副議長。1990年にベラルーシ最高会議は主権宣言を採択し同時に非核地帯であることも宣言された。1991年ソ連8月クーデターを支持したデメンティ最高会議議長の後任として、9月18日ベラルーシ共和国最高会議議長(国家元首)に選出される。シュシケヴィチは、ベラルーシのベロヴェーシの森でロシアのエリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチュク最高会議議長とともに会談を持ち、ソ連の解体、独立国家共同体(CIS)の結成を決定した(ベロヴェーシの森の陰謀)。
シュシケヴィチは、CISの統合強化には消極的で、1992年5月CISの集団安全保障協定に調印することを拒否し、協定調印に積極的な最高会議と対立した。1993年4月ベラルーシ最高会議は、CIS集団安全保障協定への調印を圧倒的多数で決議したが、シュシケヴィチは再度調印を拒否し、議会と決定的な対立に至った。また、経済運営でも、独立後の深刻な生産力の低下とハイパーインフレーションに見舞われ、経済危機が深刻化し、政権は弱体化していった。1994年1月最高会議議長を解任される。
1994年3月ベラルーシ最高会議は新憲法を採択し、大統領制を導入することとなった。シュシケヴィチは、1994年6月に行われた大統領選挙に立候補したが、検事出身のアレクサンドル・ルカシェンコに敗れた。2005年現在、野党代表として活動している。