アレクサンドル・ルカシェンコ
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アレクサンドル・ルカシェンコ(Алякса́ндр Рыго́равіч Лукашэ́нка, Aleksandr Grigor'evich Lukashenko, 1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ロシア・ベラルーシ連邦国家の初代「最高国家評議会議長」(2000年 - )でもある。1994年にロシア連邦との関係強化を掲げ初当選し、1996年には任期を延長、2001年に再選、2004年には憲法の3選禁止条項を撤廃し3選を果たした。なお、1999年12月8日にロシア連邦とベラルーシとの間で調印されたロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約の発効に伴い、翌2000年1月に「ロシア・ベラルーシ連邦国家」の初代「最高国家評議会議長」(「国家元首」)に就任した。
1954年8月30日当時のソビエト連邦白ロシア共和国のヴィテブスク州オルシャンスク地区コピィシ(コプイシ)村で生まれたとされるが、生い立ちには不明な点もある。両親はルカシェンコが1歳の時に離婚。父親のアルコール中毒が原因と言われている。
1975年モギリョフ教育大学歴史学部を卒業。通信教育で農業アカデミー経済学部を卒業。1990年ソフホーズの支配人から、白ロシア共和国最高会議代議員選挙に立候補し当選する。独立後は、1993年汚職追及委員会議長に就任し、政治家の汚職を糾弾し、有権者の支持を獲得する。
主な支持政党は人民戦線とベラルーシ共産党(KPB)などである。特に共産党とは「ソ連の復活」で一致し、レーニン像を保護するなど容共である。
1994年ベラルーシ大統領選挙に立候補。大衆迎合的な選挙公約を掲げ、他の候補に圧勝、初代大統領に就任する。民主化に逆行した政策をとったため、複数政党制民主主義の導入を主張する欧米諸国政府からは「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれ、時に強権的政治手法をとる政権運営は、諸外国やメディア等から批判の対象となることもある。また、ロシア連邦との「連邦国家」の実現による両国の政治・経済・軍事などの各分野での両国の統合構想を強く推進し、1999年12月8日には、当時のボリス・エリツィン・ロシア連邦大統領との間でロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約に調印しているが、その後、彼に代わってロシア連邦大統領に就任したプーチンらが提唱するロシアによる事実上のベラルーシ併合発言に反発し、両国の統合構想は行き詰ったままである。
一方、経済面ではソ連崩壊後の経済危機を乗り切り、国内総生産の成長や工業生産の回復など一定の成果を収めており、ベラルーシの1人当たり国民所得は中所得国水準を維持している。
2005年、アメリカ合衆国のジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領は、打倒すべき独裁国家のひとつとしてベラルーシを挙げた。2006年3月19日に行われた任期満了に伴う大統領選挙で、得票率82.6%で圧勝し3選を果たした。