デギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー
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デギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・ヴィゴー・デュ・プレッシ・ド・リシュリュー(エギヨン、エギュイヨン、Emmanuel-Armand de Vignerot du Plessis de Richelieu, duc d'Aiguilon、1720年7月30日 – 1782年) は、フランス王国の政治家、軍人、貴族。ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィゴー・デュ・プレッシ・ド・リシュリュー Louis François Armand du Plessis, duc de Richelieu公爵・元帥の甥(リシュリュー元帥は、ルイ13世の宰相リシュリューの甥の子)。
17歳で軍に入隊する。ブリエ連隊の大佐となる。オーストリア継承戦争に従軍し、イタリアに派遣されている。1744年シャトー・ドーファンの包囲戦で重症を負う。1746年捕虜となるが、1748年陸軍元帥に昇進する。
宮廷内ではポンパドゥール夫人、ジャンセニスト、高等法院(パルルマン)の三者に対して反対派の立場を取った。1753年ブルターニュ地方総監に任命されるが、現地の住民の同意なく新税を課税しようとするなどして衝突したため、任地ではひどく不人気であった。1764年6月国王ルイ15世は地方の同意無しに新税の課税が禁止されている件を国王大権を制限するものとして破棄した。
1765年デギュイヨン公爵とブルターニュ地方の対立は頂点に達し、公爵は現地の高等法院を閉鎖し、独自に有能な法律家を集めて裁判所を創設したが、このことは批判を浴び風刺された。1768年デギュイヨン公爵は宮廷に戻り、1770年12月24日外務卿(外務大臣)ショワズール公爵の失脚後、外務卿に就任し、大法官モープー、アベ・テレとともに宮廷における実力者としてルイ15世の治世末期、国政を指導した。この三人の体制は宮廷内では不評で「三頭政治」と呼ばれ非難されることもあったが、1774年まで続き政治的には安定した状態を作った。
1774年ルイ15世が天然痘により崩御すると、デギュイヨン公爵はデュ・バリー夫人の一派であったため、夫人と対立関係にあった王妃マリー・アントワネットに忌避され辞任した。
フランス革命で国民議会議員となったアルマン・デギュイヨン公爵は息子である。
[編集] 参考文献
- Mémoires du ministere du duc d'Aiguillon (2nd ed., Paris and Lyons, 1792), probably written by J. L. Soulavie
ブルターニュでのデギュイヨン公の統治については以下を参照。
- Henri Carré, La Chalotais et le duc d'Aiguillon (パリ, 1893年)
- Marcel Marion, La Bretagne et le duc d'Aiguillon (パリ, 1898年)
- Barthèlemy Pocquet, Le Duc d'Aiguillon et La Chalotais (パリ, 1901年-1902年) (These have bibliographies.)
この他
- Jules Flammermont, Le Chancelier Maupeou et les parlements (パリ, 1883年)
- フレデリック・マソン, Le Cardinal de Bernis (パリ, 1884年)
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この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
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