ドリー・ファンク・シニア
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ドリー・ファンク・シニア | |
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プロフィール | |
リングネーム | ドリー・ファンク ジ・アウトロー マスクド・マーヴェル ドリー・ファンク・シニア |
本名 | ドランス・ウィルヘルム・ファンク |
身長 | 180cm |
体重 | 104kg |
誕生日 | 1919年5月4日 |
死亡日 | 1973年6月3日 |
出身地 | アメリカ・インディアナ州 |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
ドリー・ファンク・シニア(Dory Funk, Sr.、1919年5月4日 - 1973年6月3日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー兼プロモーター。プロレスのマネージャーとしても活躍した。
本名:ドランス・ウィルヘルム・ファンク(Dorrance Wilhelm Funk)。インディアナ州ハモンド出身。
息子のドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクも著名なプロレスラーである。
目次 |
[編集] 経歴
少年時代はアメリカンフットボールをはじめ万能アスリートとして活躍。第二次世界大戦後、プロレスラーとしてデビュー。1949年にテキサス州アマリロに本拠地を移す。当初はドリー・ファンク(Dory Funk)のリングネームでザ・シーク等と対戦しているが、悪役レスラーとして活動していたらしい。また、一時期マスクド・マーヴェル(Masked Marvel)という覆面レスラーとしても活動している。
現役時代は1958年にNWA世界ジュニア・ヘビー級王座を獲得するなど活躍したが、アマリロに本拠を構えて二人の息子に幼少の頃から英才教育を施しトップレスラーに育て上げたことにより名声は一気に高まり、息子のドリー・ファンク・ジュニアと区別する為ドリー・ファンク・シニアとして活動するようになる。
その後、ドリー・ファンク・ジュニアが1969年2月にNWA世界ヘビー級王座を獲得(テリー・ファンクもシニアの死後1975年に獲得)したことによりプロレス界で一目置かれる存在となり、南部地区のプロモーターとしても活躍。
1969年11月に日本プロレスに参戦するため来日したドリー・ファンク・ジュニアのマネージャーとして同行し初来日。1972年10月に来日した時は、全日本プロレス旗揚げシリーズにレスラーとして参戦している。アマリロには多くの若手レスラーが集い、「ファンクス一家」の長として確固たる地位を築いたが1973年6月3日に心臓発作で急死。
[編集] 得意技
- スピニング・トーホールド(この技は二人の息子に伝授され、ファンクス・ファミリーの代名詞的な技となった)
- ブルドッキング・ヘッドロック
- ボディスラム
- エアプレーン・スピン
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国のプロレスラー | インディアナ州の人物 | 1919年生 | 1973年没