ドリー・ファンク・ジュニア
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ドリー・ファンク・ジュニア | |
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プロフィール | |
リングネーム | ドリー・ファンク・ジュニア ホス・ファンク(WWF) |
本名 | デマンク・ファンク |
ニックネーム | アマリロの星 グレート・テキサン |
身長 | 190cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1941年2月19日 |
出身地 | アメリカ・インディアナ州 |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | ドリー・ファンク・シニア ルー・テーズ |
デビュー | 1963年7月 |
ドリー・ファンク・ジュニア(Dory Funk Jr.、1941年2月19日 - )はプロレスラー。本名はデマンク・ファンク。米国インディアナ州インディアナポリス出身で、後テキサス州アマリロに転じた。ニックネームは「グレート・テキサン」。父親のドリー・ファンク・シニア、弟のテリー・ファンクも著名なプロレスラーである。
目次 |
[編集] 経歴
ウエスト・テキサス州立大学でフットボール選手として活躍後、1963年7月にアマリロで初マットを踏む。同年11月にはデビュー4ヶ月にして時のNWAヘビー級王者ルー・テーズと対戦している。1969年2月11日、フロリダ州タンパにおいてジン・キニスキーを破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得し、1973年5月24日、ミズーリ州カンザスシティで「弟分」ハーリー・レイスに敗れるまで4年3ヶ月にわたる長期政権を築いた。その間、日本でもジャイアント馬場・アントニオ猪木・坂口征二と防衛戦を行い、防衛を果たしている。
以来、米国を代表するレスラーとなり、実力世界一と謳われた時期もある。後に全日本プロレスの常連となると、準日本側のような扱いになり、主にアブドーラ・ザ・ブッチャー、ホースト・ホフマン、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディといった外国人レスラーと名勝負を残している。また、1977年には世界オープンタッグ選手権に弟テリーと組んで優勝、1979年・1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝、1981年にはインターナショナル・ヘビー級王者にも輝いている。80年代以降力が衰えてからも全日本プロレスへの来日は90年代半ばまで続き、その間1983年・1985年の最強タッグには馬場とコンビを組んで出場した。
また選手としてだけでなく、全日本プロレスへの外国人レスラーのブッキングを行ったり、また指導者として多くの後進を育成したことでも知られる。門下にはジャンボ鶴田、天龍源一郎、西村修、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、テッド・デビアス、ディック・スレーターらがいる。門下ではないが、カート・アングルも彼のコーチを受けている。
現在は不動産事業を手掛ける傍ら、ファンキン・コンサバトリー(Funkin' Conservatory)というレスリングスクールにて後進の指導に当たり、自身も時折インディー団体のリングに上がっている。
[編集] 得意技
- スピニング・トーホールド
- ダブルアーム・スープレックス
- エルボー・スマッシュ
- ブレーンバスターなど。
なお入場テーマ曲である「スピニング・トーホールド」は、日本のロックバンド、クリエイションが技をイメージして作ったものである。
[編集] エピソード
[編集] 関連記事
[編集] 外部リンク
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