テリー・ファンク
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テリー・ファンク | |
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プロフィール | |
リングネーム | テリー・ファンク チェーンソー・チャーリー |
本名 | テレンス・ファンク |
ニックネーム | テキサスブロンコ テキサスの荒馬 リビング・レジェンド |
身長 | 188cm |
体重 | 110kg |
誕生日 | 1944年6月30日 |
出身地 | アメリカ・テキサス州 |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | ドリー・ファンク・シニア ドリー・ファンク・ジュニア |
デビュー | 1965年12月9日 |
テリー・ファンク(Terry Funk、1944年6月30日 - )は、アメリカテキサス州アマリロ出身のプロレスラー。本名:テレンス・ファンク(Terrence Funk)。身長188cm、体重110kg。「テキサスブロンコ」・「テキサスの荒馬」の異名を持つ。実兄であるドリー・ファンク・ジュニアとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも大活躍した。
何度となく引退と復帰を繰り返していることでも有名。俳優として活動していたこともある。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] NWA~WWF
プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリーと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。
1965年にアメリカでプロレスデビュー。1970年6月に日本プロレスのリングに上がるため初来日。1971年12月に「ザ・ファンクス」でジャイアント馬場・アントニオ猪木組を破りインター・タッグ王座を獲得。1972年10月に全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降全日の常連となり大活躍した。
アメリカでは、1975年12月10日にジャック・ブリスコを破って第51代NWA世界ヘビー級王者となり、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった。1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座陥落。
1977年12月の世界オープンタッグ選手権では「地上最凶悪コンビ」アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組を退けて初優勝。1979年と1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝した。
1983年8月31日に全日本のリングで現役を引退したが、1984年8月に復帰。1986年6月にはドリーと共にWWF入りし、ジミー・ハートをマネージャーにヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争劇を展開した。
再び引退宣言して俳優活動に入り、『オーバー・ザ・トップ』など数本の映画、ドラマに出演。
[編集] WCW、ECW以降
1989年5月7日、リック・フレアーとリッキー・スティムボートのNWA王座戦に採点ジャッジとして参加。試合後、勝者フレアーに襲い掛かり、史上初とも言われる「テーブル上でのパイルドライバー」を敢行。フレアーとの因縁ドラマでは「イカレた中年」の大ヒールとして活躍し、11月15日に決着戦として行われたI Quit戦はプロレス史に残る名勝負として語られている。この試合が、ミック・フォーリーなど後のハードコア路線の選手たちに与えた影響は非常に大きい。
以降インディ団体などを回るようになり、ラフファイトで有名なテネシー地区でのジェリー・ローラーとの抗争や、何よりかつての宿敵ザ・シークの甥であるサブゥーとの出会いにより、ハードコアと呼ばれる過激な試合スタイルに目覚める。
1993年からは創世記のECWに参加。1997年末までのECW全盛期を主役の一人として過ごす。ECWがWWF、WCWの両メジャーと提携していた関係で双方のリングにも上がっている。退団後は一年間WWFにチェーンソー・チャーリー(Chainsaw Charlie)のリングネームで登場。弟子のような存在であるフォーリーとのタッグで活躍。末期のWCWにも出場した。
現在も数多くのインディ団体に登場し、一時期は初期TNAにも登場した。2005年WWEがECWを復活させると、当初は反WWEの立場を取っていたが、翌年のECW One Night Stand 2006には参戦した。
[編集] 評価
[編集] レスラーとしての姿勢
NWA王者として活動し超一流のレスラーとしての名声を得た後でも、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢は、「リビング・レジェンド」(生ける伝説)と讃えられている。 前述のハードコアマッチやデスマッチへの挑戦、50歳を過ぎてからムーンサルトプレスを使い始めるなど(形は不完全であったが)、その活動は特筆すべきもので、後に続く者からのリスペクトは絶えない。 長年の酷使により膝が完全に壊れている為、膝サポーターは欠かせず、常にロングタイツを着用している。鎮痛剤を常用しているといわれ、その副作用のせいか、単なる性格的なものなのかは不明だが、感情を抑制出来ず癇癪を起こすことが多いと伝えられている。 しかし、そんな状態であっても多くのレスラーの尊敬を勝ち得ていることは賞賛に値する。
[編集] 日本での活躍
テリー・ファンクは1970年代後半から1980年代前半にかけて、日本のプロレス界で最も成功した外国人レスラーの一人である。日本のプロレス界では長らく「外国人レスラーは日本人レスラーより人気がない」、「年末の興行は不振である」と言われ続けてきたが、77年の「オープンタッグ選手権」決勝戦でこれらのマイナス要素を一気に解消した。凶器攻撃を繰り返すブッチャー・シーク組に対して「テキサス魂」で真っ向勝負を挑む姿は日本ではプロレスファン以外の心をもつかみ、男女を問わず熱狂的なファンが付き「ファンクス」親衛隊も生まれた。
大成功を収めた「オープンタッグ選手権」は、以降「世界最強タッグ決定リーグ戦」へと発展し全日の看板シリーズとなった。また、この試合に感動した漫画家・ゆでたまごは「キン肉マン」にテリー・ファンクをモデルにした「ザ・テリーマン」というキャラクターを生み出した。このように日本では絶対的なベビーフェイスとして認識されているが、ラフファイトに強い一面からもわかるように、アメリカではヒールとして活動していた期間も長い。また、大袈裟な受身も特徴で、特に最強タッグ決定リーグ戦において場外で紙テープにまみれてダウンするシーンは語り草となっている。
1993年5月にFMWのリングで大仁田厚とデスマッチ対決。1995年5月3日に福岡ドーム大会で新日マットに初参戦した。
[編集] 得意技
[編集] タイトル履歴
- NWA
- NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第51代)
- NWA認定インターナショナルタッグ王座 :2回(&ドリー・ファンク・ジュニア×2)
- ECW
- ECW 世界ヘビー級王座 : 2回
- ECW TV王座 : 1回
- WWF
- WWF世界タッグ王座 : 1回(&カクタス・ジャック)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 公式サイト(英語)
- WWE Profile
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