ノルマン・コンクエスト
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ノルマン・コンクエスト(英語:The Norman Conquest)は、ノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服のことである。1066年のヘースティングスの戦いに勝利したギヨームは、ウィリアム1世としてノルマン王朝を開いた(ウェストミンスター寺院での戴冠式は同年12月25日)。これによりイングランドはノルマン人により支配されることとなった。
ノルマン・コンクエストは、イングランドの歴史の分水嶺となり、デンマーク付近(ゲルマン人の領域)の強い政治的・文化的影響から離れ、ラテン系のフランスと政治的にも文化的にも強く関係することになる。
なお、ノルマン人はイングランド人(アングロ・サクソン人やデーン人)と同様にゲルマン人の一種なので、異民族というほどでもない。ノルマン・コンクエストが比較的容易に進んだ一因に、どちらの民族もゲルマン人であったということがある。
イングランド以外のウェールズとスコットランドとアイルランドには、ノルマン・コンクエストの支配・影響はあまり及ばなかった。これらの領域では、もともとケルト人の勢力下にあり、ゲルマン人の勢力下にはなかったので、そういうことも一因となったようだ。
(ただし後になって、これらの地域でイングランドとの抗争や関係なども発生する。この抗争や関係は、ノルマン・コンクエスト自体によるものではなく、ノルマン・コンクエスト以後の出来事による。)
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[編集] 背景
11世紀のイングランドは、デーン人の王朝(クヌート王等)の後、ノルマンディの支援を受けたアングロ・サクソン王朝のエドワード懺悔王が即位したが、その支配はデーン人とノルマンディ人の影響力の脆いバランスの上に立ったものだった。この不安定な状況が、のちに外部の介入を招く伏線となった。
エドワード懺悔王には息子がいなかったので、異母兄エドマンド2世の息子エドワード・アシリングをあらかじめ後継者に迎えていたが、エドワード・アシリングが亡くなると、その幼い息子エドガー・アシリングを後継者とした。しかし、1066年に懺悔王が亡くなると、年少(15歳前後)のエドガーは無視された。かわりに、王妃の兄で最大のサクソン貴族であったハロルド・ゴドウィンソンが、サクソン諸侯会議によって王として選ばれた。
このあと、紛糾が起こった。ハロルドの弟トスティは、ノルウェー王ハーラル3世と組んで王位を主張した。一方、ノルマンディ公ギヨームは、エドワード王から後継者に指名されていたと主張した。さらにギヨームは、以前にハロルドがギヨームの後継を承認する誓い(聖骨の誓い)をしており、彼の即位は破誓であり無効だとし、ローマ教皇の承認を得た。かくて、状況が紛糾して、これを解決するのは武力しかないというありさまになった。
[編集] 戦い
1066年、ハロルドの戴冠後に、まず弟トスティが反旗を起こした。トスティはイングランド南部を荒らしたあと、北のスコットランドに移り、ノルウェー王と組んで、再び攻勢をしかけた。一方、ギヨームは、配下のノルマンディ諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って、南方から攻勢をしかけた。ハロルドは北方と南方から挟まれる形になった。
この状況で、まず北方のトスティが攻勢をしかけた。ハロルドの軍は激戦の末にこれを撃破した(スタンフォード・ブリッジの戦い)のだが、疲弊した。そこへ南方からギヨームが攻勢をしかけた。イングランドに上陸し、優秀な騎馬や相手の戦術ミスなどでハロルドの軍を撃破した(ヘースティングスの戦い)。
ギヨームはさらに南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯は、ハロルドの戦死後に幼少のエドガーを擁立して抵抗したが、ギヨームの攻勢を受けて、ギヨームの王位を認めざるをえなくなった。ギヨームはウィリアム1世として即位した。
[編集] 征服
以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ギヨームはイングランドの統一を推進した。ノルマンディ式の封建制を取り入れて、(ヘースティングスの戦いなどで)戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリフ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。
緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルドの一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された(前述)。その後も、1070年にデーン人、スコットランド王などの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達は、(ロビン・フッドのモデルの一人といわれる)ヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。これ以降、イングランドは安定した。
エドガーはスコットランドに逃亡し、その妹マーガレットは後にスコットランド王マルカム3世と結婚した。彼女の娘イーディスは後にサクソン人、ノルマン人融合の証としてヘンリー1世と結婚することになる。
ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降、イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2世の時のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。
なお、ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、(国民全体から見ればごく少数の)領主・貴族に限った征服だとも言える。当然ながら、一般大衆におけるイングランド語やイングランド文化が消滅したわけでもない。
[編集] 支配
ウィリアム1世の支配のもとで、サクソン人は土地を奪われた。サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるかビザンティン帝国に傭兵として雇われるものもいた。
ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(manor)を分散して与えた。征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。
その一方、諸侯たちはお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナカルタやイングランド議会の発展につながる要因となっている。
また全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。当時は、フランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいた。
[編集] 影響
フランス王の封建臣下であるノルマンディ公が同時にイングランド王を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。
また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。
ウィリアムに従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいにウェールズ、アイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。
ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に変わり、ノルマンディー方言を中心とする北フランスの言語(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)が貴族社会の言語となった。
動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚 - pig, swine/豚肉 - pork; 牛 - cow, bull, ox/牛肉 - beef; 羊 - sheep/羊肉 - muttonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。その他の例にyardとgardenなどが挙げられる。また、現代の一般的なフランス語での "ch" は/ʃ / 「シ」に近い発音だが、ノルマンディー地方の方言(ノルマン語)では、「チ」に近い発音をしていたという。フランス語起源の英語の単語で‘ch’が含まれるもののうち、「シ」ではなく「チ」に近い発音をすることが多いのは、この名残りである(例:Charlesはフランス語ではシャルル、英語ではチャールズと読む)。
また、法廷や公文書などもフランス語で表記された。これは1362年に『訴答手続規則』(The Statute of Pleading)において英語を用いるように定められるまで続けられた。
[編集] ハレー彗星
なお1066年はハレー彗星が地球に接近した年であることが後にわかった。ノルマン・コンクエストをあらわしたバイユーのタペストリーの中に彗星が描かれているものがあるが、この彗星がハレー彗星であることが18世紀になって証明された。