ノルマン人
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ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ。(同項目を参照。)
[編集] 略史
- 8世紀後半から活発化。9世紀にはヨーロッパ各地を侵略し建国する。
- ヴァイキングが住み着いたフランス北西部のノルマンディーのフランス人もノルマン人と言う。「ノルマンディー公国」を建国し、11世にイングランドに征服王朝「ノルマン朝」を建国した。その一部は、イタリアへ侵攻し、南イタリアにシチリア王国(オートヴィル朝)を建国した。
- グレートブリテン島、アイルランド島をたびたび侵略した一派は、デーン人と呼ばれる。ノース人はカナダからウクライナにわたる領域に広がった。彼らの一部は地中海へ進出し、ノルマンディーから来たノルマン人と合流している。
- ロシア平原に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれる。ヴァランジャンとも言う。彼らはこの地で「ノヴゴロド公国」、「キエフ公国」を建国した。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国のコンスタンティノポリス侵攻も行った。ただし彼らは、商業目的も兼ねていた。
- 8世紀から9世紀にかけ、ヴァイキングの故地スカンディナヴィア半島を中心にデンマーク、スウェーデン、ノルウェーと言った王国が建国され、10世紀には、アイスランド自由国が成立した。北欧諸国家を建国したノルマン人たちは、北欧神話、ルーン文字を捨て、キリスト教に改宗し、キリスト教世界(カトリック教会)に属する事となった。
- アイスランド人となったノルマン人の中には、大西洋を越え、グリーンランド、アメリカ大陸へ達する者もいた。
- 地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加した。その中には、1099年にアンティオキア公国を建国した者もいた。
ヴァイキングが終了した後、彼らは、北欧において独自の国家を建設し、中世以降、デーン人、スヴェーア人、ノール人、アイスランド人などと分離し、ノルマン人としての概念は薄れていった。しかし彼らの言語である「古ノルド語」は、16世紀頃まで使用されていた。ノルマン人と言う呼称が復活するのは、19世紀である。この時代、つかのまではあったが、彼らのナショナリズムが昂揚し、ノルマン人を冠した「汎スカンディナヴィア主義」が沸き上がった。しかし同じゲルマン人であるドイツ人が掲げた「パン=ゲルマン主義」(ドイツ統一)に敗れ、ノルマン人としての一体化、統一は失われたまま現在に至っている。20世紀、第二次世界大戦後、北欧諸国が北欧理事会を設立したが、これは北欧諸国の協調と協力のための国際組織で、ノルマン人の合同と言うわけではない。
[編集] 著名な人物
- リューリク ロシア平原に侵入し、862年ノヴゴロド公国を建てる。
- イーゴリ オレーグを後見人に882年キエフ大公国を建国。この国家は後にスラヴ化し、10世紀に東方正教会に改宗。
- オリガ キエフ公妃。ノルマン人とされる。957年東方正教会に帰依。
- ロロ 北フランスを略奪し、911年ノルマンディー公国を建てる。
- 赤毛のエイリーク (Eiríkr rauði); 950-1003) グリーンランドを発見。
- レイフ・エリクソン 赤毛のエイリークの長男でコロンブス以前に北米大陸(アメリカ)に到達した。
- カヌート大王 (クヌート)デーン人の指導者、国王。1016年、イングランドにデーン朝を開く(北海帝国)。
- ギスカール(1015~1085)ノルマンディー公国出身。シチリアをアラブ人より奪還し、カトリックの地に戻す。
- ターラント公ボエモン シチリア島出身。第1回十字軍に参加し1098年アンティオキア公国を建国。
- ルッジェーロ1世 1130年、南イタリア・シチリア他を征服しシチリア王国を建てる。
- ノルマンディー公ウィリアム(1027~1087年)、1066年イングランドを征服(ノルマンコンクエスト)。現在に続くイギリス王室の血統を築く。