ノーマン・シュワルツコフ
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ノーマン・シュワルツコフ | |
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1934年8月22日 - | |
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渾名 | 嵐のノーマン |
忠誠 | アメリカ陸軍 |
階級 | 大将 |
指揮 | 中央軍司令官(湾岸戦争) |
戦闘 | ベトナム戦争 グレナダ侵攻作戦 湾岸戦争 |
賞罰 | Defense Distinguished Service Medal Distinguished Service Medal Legion of Merit Silver Star Bronze Star Medal Purple Heart Presidential Medal of Freedom Legion of Honor |
ハーバート・ノーマン・シュワルツコフ(Herbert Norman Schwarzkopf Jr., 1934年8月22日 - )はアメリカの元陸軍大将。湾岸戦争時には中央軍司令官を務め、事実上、多国籍軍の総指揮を取った。IQは170といわれる。ドイツ語、フランス語、ペルシャ語に堪能。20世紀を代表するソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップ(1915-2006)は彼の叔母と言われることがあるが、エリーザベトに兄弟姉妹はないので、これは都市伝説である。
ニュージャージー州トレントンで生まれ。父ハーバート・ノーマン・シュワルツコフ准将はイラン政府の軍事顧問を勤めたこともあるアメリカ軍人で、1953年にクーデターでモサッデク政権を打倒する立役者の1人であり、1932年に発生したリンドバーグの息子の誘拐殺人事件捜査を管轄するニュージャ-ジー州警察長官を務めていた。母親はトーマス・ジェファーソンと姻戚関係にあった。1956年に厳しいエリート教育で知られるウェストポイント陸軍士官学校を卒業し、1964年に南カリフォルニア大学より誘導ミサイルに関する論文で修士号を修得する。
ウェストポイント陸軍士官学校卒業後、歩兵将校に任官しアメリカとドイツに駐留する。大学院修了後、ウェストポイントで教授職に就く。その後ベトナム戦争で南ベトナム軍の空挺部隊の軍事顧問となり、2度の戦闘で負傷し、パープルハート勲章を与えられる。
1970年代には将官に昇進し、1983年のグレナダ侵攻作戦では地上軍部隊の指揮を執った。1988年に大将に昇進すると、シュワルツコフはアメリカ中央軍司令官に任命された。
1990年の湾岸戦争開戦後、「砂漠の嵐」作戦を指揮し、クウェート側に集中していたイラク軍の裏をかき、イラク領内を攻撃するという「左フック」戦略により、わずか4日で地上戦を勝利に導く。戦時中シュワルツコフは、前線で指揮を取るだけでなく、プレス発表をも自ら行い、「嵐のノーマン」と呼ばれた。
湾岸戦争後、当時のブッシュ大統領より、陸軍元帥への昇進と陸軍参謀総長への就任の打診されるが、固辞して1991年8月に退役する。
1991年8月9日の退官式ではチェイニー国防長官が「危機にあっては、一人の人間が命運を左右する。司令官こそその人間であり我々に勝利をもたらした。」とスピーチした。
[編集] 参考文献
H・ノーマン・シュワルツコフ(著)、『シュワーツコフ回想録―少年時代・ヴェトナム最前線・湾岸戦争』、新潮社、『1994年]]