ハイレ・セラシエ1世
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ハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie I, アムハラ語:ቀዳማዊ፡ኃይለ፡ሥላሴ, 1892年7月23日 - 1975年8月27日)は、エチオピア最後の皇帝(在位1930年11月2日(戴冠式が行われた月日)-1974年9月12日)。
1916年のクーデター後、メネリク2世の娘で女帝として即位したザウディツの皇太子、そして摂政となり実権を掌握する。ザウディツの死後、1930年4月即位。1936年~1941年、エチオピアがイタリアに占領されていた期間 (→イタリア領東アフリカ帝国) は英国に亡命。アフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)設置に寄与するなど外交面で優れた政治能力を発揮したが、内政をおろそかにしたため1974年に陸軍のクーデターで逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に死去。長らく遺骨は行方不明であったが、メンギスツ政権崩壊後の1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバのトリニティ大聖堂内の墓地に埋葬された。
[編集] ラスタファリアン
ハイレ・セラシエ1世はジャマイカを中心とする黒人運動、ラスタファリズムにおいて、神(ジャー)の化身であり、地上における三位一体の一部であると信じられている。
1916年ジャマイカの汎アフリカニズム運動家、マーカス・ガーヴィーは「黒人の王が即位する時のアフリカを見よ。その人こそ救世主となるだろう。」と予言したため、その14年後に即位したハイレ・セラシエは中南米の黒人たちから自分たちをアフリカに帰してくれる救世主として崇められるようになった。ハイレ・セラシエは即位前の名をラス・タファリ・マッコウネンといい、この名前をとって崇拝者たちのことをラスタファリアンと呼ぶ。
ラスタファリアンたちは今でもハイレ・セラシエの存命を信じており、セラシエの死は反対派の流した噂に過ぎないと考えている。1966年にセラシエがジャマイカを訪れたときには民衆の熱狂的な歓迎を受け、セラシエ自身が動揺するほどだった。
エチオピア南部の街シャシャマネのマルカウォディャ地区には、移住してきてハイレ・セラシエからその地を与えられたジャマイカ人約200人がエチオピア人のラスタファリアン約200人と共に住んでいる。
ラスタファリアンによると、彼らはセラシエの再臨を「信じている」のではなく、「知っている」のだそうである。