ハード・プロブレム
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意識のハード・プロブレム(Hard problem of consciousness) とは、1994年にアメリカの学会で心の哲学者デイヴィド・チャーマーズによって提唱された概念。当時「意識に関する大きな問題は、もう何も残されていない」と考えていた一部の神経科学者や認知科学者、関連分野の研究者に対する批判として提示された。
当時の研究者が「解けた」と考えていたのは全て意識に関するやさしい問題ばかりであり(これを意識のイージー・プロブレムと言う)、真剣に議論されてさえいない「意識に関する本当に難しい問題」がまだ残されている。それは具体的には次のような問題である。すなわち
チャーマーズ自身はハードプロブレムは現在の物理学の範囲内では解決不可能だとしており、現在の物理学は拡張されなければならない、と主張している。ハードプロブレムはこれからの科学、とりわけ物理学が、真剣に向き合っていかなければならない問題として、心の哲学(心身問題や自由意志の問題を議論する哲学の一分科)を中心にその詳細が議論されている。
目次 |
[編集] 歴史的背景
ここでは意識のハード・プロブレムという概念が提唱されるに至った、科学史上の背景を概説する。
20世紀末ごろから、fMRIの進歩などにより、神経科学や認知科学はこれまでにないほどの急速な発展を遂げた。当然 意識に関する研究も膨大な数に上ったが、実験における技術上の制約から、物理的に観測可能な現象に関する研究以外はほとんど行われていなかった。これは当然といえば当然であり、ハードプロブレムという概念が広く知られた現在においても、この点については基本的に変化がない。しかしながら当時の問題点として、観測にかからない対象については議論をすることさえも憚られる、といった風潮があり、また、観測にかからないものは存在しないものとする、といった空気まであった。
しかし哲学の世界では現象的意識を扱った一連の系譜が存在しており、カントやフッサールの現象学などに代表されるように心的表象、現象などの概念を議論してきた長い歴史がある。これらの知識をひとつのバックボーンとして当時の意識研究の状況を批判したのがチャーマーズであった。1994年当時まだ駆け出しの研究者に過ぎなかった弱冠28歳のチャーマーズであったが、ハード・プロブレムの概念は大きい注目を浴び、ノーベル賞受賞者を含む各界第一線の研究者たちがこの問題について論文を寄稿した(フランシス・クリック、ロジャー・ペンローズ、ダニエル・デネット、en:Colin McGinn、フランシスコ・バレーラなど)
ハードプロブレムの概念が広く知られるにつれ、「意識やクオリアは哲学の問題であると同時に、科学の問題でもあるのだ」という認識が科学者コミュニティーの間でも徐々に広がりつつあり、実験系の研究者の間でも、意識やクオリアといった観測にかからない対象についての議論がなされるようになった。これにより以前のような閉塞的状況は随分と緩和され、現在 実験と理論の両面から、意識研究はさらなる盛り上がりを見せている。
[編集] 意識の二面性

赤信号から出た光は、あなたの網膜で化学反応を起こし、神経細胞を興奮させる。その興奮は視神経を通って、脳の視覚野に入力される。脳内の各部位で一連の神経細胞が発火したあと、運動神経への出力が足の筋肉を収縮させ、ブレーキを踏みこませる。また交感神経への出力が心臓の動悸をはやめ、発汗を引き起こす。これら一連の現象は全て機能的意識の問題であり、これを研究することは意識のイージープロブレムに位置づけられる。しかしこれが現象の全てではない。あなたは赤信号の赤い感じ、突然訪れた恐怖、「ハッ」とした驚きの感覚、すなわち様々なクオリアを感じている。これらが現象的意識であり、これについての研究は意識のハードプロブレムに位置づけされる。
ここでは意識の二面性について述べる。そもそもハードプロブレムという概念があえて提唱されるに至ったのには、意識という言葉が様々な意味を持った多義語として使われている、という混乱した状況が背景にある。つまりそれぞれの研究者が、同じ「意識」という言葉を使っていながら、全く違った意味を持たせていることがあり、それが様々な議論上の混乱を生んでいる。言葉の用法の詳細については記事:意識に譲るが、この項目では意識の中でもハードプロブレムに関連する最も重要な区分、機能的意識と現象的意識について述べる。
- 機能的意識
- 現象的意識
[編集] 解説
ハード・プロブレムとは 「物質としての脳の情報処理過程に付随する意識とは、そもそも一体何なのか?」 という形で問われる一連の問題を指す。 易しい言葉で言い換えると 「物質としての脳から、なぜ、またどうやって心が生まれるのか?」 という類の問題である。ここにはイージー・プロブレム(後述)に分類されないすべての問題が入る。 これらは、どうやって回答に近づけばいいのか分からず、またそもそも回答を得ること自体できるのかどうかも、誰も確信が持てないというハードさ(難しさ)があり、科学と哲学の中間に位置づけられる問題である。
これに対して意識のイージー・プロブレム(easy problem)または単にイージー・プロブレムとは 「物質としての脳はどうやって情報を処理しているのか?」 という形で問われる一連の問題を指す。 つまり問題を解くための方法論に関して、既存の科学の延長線上で行うことが可能で 根本的なレベルでの方法論的な困難が存在しない、という点でイージー(簡単)だと言う事ができる範囲の問題の事である。 しかし研究対象がイージー・プロブレムに分類される問題であっても、実際の研究行為が大変なものである事は言うまでもない。
[編集] ハード・プロブレムに分類される問題
「物質としての脳から、なぜ、またどうやって意識やクオリアが生まれるのか?」
- 意識を持たない人間(哲学的ゾンビ)は存在可能か?
- バインディング問題
[編集] イージー・プロブレムに分類される問題
「物質としての脳はどうやって情報を処理しているのか?」
- 起きている時と寝ている時での意識の違いを、人々はどのように報告するのか
[編集] 関連記事
[編集] 参考文献
- チャーマーズが初めてハードプロブレムの概念を発表したカンファレンス。サイトでは当時の発表の音声テープを20ドルで買える。
- "Toward a Scientific basis for consciousness" Sponsored by The University of Arizona April 12 - 17, 1994 Tucson, Arizona サイト
- チャーマーズがハード・プロブレムについて論じた初めての論文
"Facing up~"に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが"Moving forward~" - デイヴィッド・J・チャーマーズ著, 林 一訳 「意識する心」 白揚社 2001 ISBN 4-8269-0106-2
心の哲学のトピックス | |
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概念 | 意識 - クオリア - 心身問題 - ハード・プロブレム - 付随性 - 因果的閉鎖性 - 自由意志 - 素朴心理学 - 消去主義 |
現行モデル | 同一説- 機能主義 - 相互作用説 - 随伴現象説 - 並行説 |
古典的モデル | 唯物論 - 唯心論 - 汎心論 - 機械論 - 生気論 - 一元論 - 二元論 - 多元論 - モナドロジー |
思考実験 | チューリング・テスト - 中国語の部屋 - 哲学的ゾンビ - スワンプマン - 水槽の脳 - マリーの部屋 |
人物(日本国外) | デイヴィッド・チャーマーズ - ジョン・サール - ダニエル・デネット - フランシス・クリック&クリストフ・コッホ -ジェラルド・イーデルマン&ジュリオ・トノーニ |
人物(日本) | 信原幸弘 - 柴田正良 - 河野哲也 - 西脇与作 / 前野隆司 - 茂木健一郎 - 郡司ペギオ幸夫 |
関連項目 | 理論物理学 - 脳 - 神経科学 - 認知科学 - 心理学 - 進化心理学 - 現象学 |