パール・ジャム
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パール・ジャム | ||
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基本情報 | ||
出身地 | アメリカ・ワシントン州シアトル | |
ジャンル | オルタナティブ・ロック グランジ ハード・ロック |
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活動期間 | 1990年から現在 | |
レーベル | エピック・レコーズ J レコーズ ソニーミュージックエンタテインメント BMGジャパン |
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公式サイト | 公式サイト | |
メンバー | ||
ジェフ・アメン ストーン・ゴッサード マイク・マクレディ エディ・ヴェダー マット・キャメロン |
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旧メンバー | ||
デイヴ・クルーセン デイヴ・アブラジーズ ジャック・アイアンズ |
パール・ジャム (Pearl Jam) とは、アメリカのロック・バンドである。
1990年代前半、シアトルを中心として従来のMTVを中心とした商業主義ロックに反抗するオルタナティブ・ミュージック・ムーブメントが若者を中心に大流行した。パール・ジャムは当時のX世代における若者たちの苦悩の代弁者とまで評され、その世代の旗手として位置づけられた。
グラミー賞受賞、アルバム3枚がビルボード1位、CDセールスの売り上げ最速記録がギネスブックに認定されるなど瞬く間に社会的・商業的成功をおさめる。そうした事からU2、R.E.M.と並び世界三大ロック・バンドに数えられる。
2005年にはUSA TODAY紙の「最も偉大なアメリカのロック・バンド」に読者投票で選出された。
目次 |
[編集] 略歴
- 1991年 - シアトルで活動していたマザー・ラブ・ボーン、グリーン・リバーのメンバーであるジェフ・アメンとストーン・ゴッサードを中心にして結成される。その後マイク・マクレディとエディー・ヴェダー(結成当初唯一の非シアトル市民)、ドラマーのデイヴ・クルーセンが加入。8月27日にデビューアルバム「TEN」をリリースする。同年、「TEN」収録後、10回のライブを行ったあとにドラマーのデイヴ・クルーセンが婚約者出産を理由に出産日当日に脱退。後任にはテキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを迎え入れる。
- 1992年 - MTVの人気番組の一つ「MTV Unplugged」に出演する。アコースティック楽器のみによる演奏であったにも拘らず、非常に激しいパフォーマンスを見せて話題となる。
- 1993年 - 10月19日に2枚目のアルバム「VS.」をリリースする。バンドはツアーを行う事によって既に大きな話題となっており、このアルバムは1週間で95万枚を売り上げた。この数字は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでビルボード誌における歴代最高の数字であった。当然ながら全米初登場1位を獲得、その後5週間に渡ってその位置を保ち続けた。
[編集] 音楽的特徴
- 低音に特徴のある、抑揚に富んだ、男性的なボーカルが最大の特徴である。歌詞にも定評があり、初期は物語的な歌詞、中期は哲学的な歌詞、近年は政治的な歌詞が多い。
- 但し作詞を担当するヴェダーは政治的な思想の影響を多方面から受け過ぎる傾向があり、時としては左から右にコロコロと変わるのでメディアに批判された事が過去にあった。またヴェダー以外のメンバーの意向は全く違う方向にある事が多々あり、他メンバーは敢えて発言を控え、「ヴェダーの意思表示はバンドを代表するものでなく個人的なものである。」という程度のコメントに留めている。
- 二人のギタリストを擁しヴォーカリストもギターを担当することもあるが、複雑なコード進行や難易度の高いギターソロを前面に押し出すバンドではなく、全体の一体感を保った上でほとんどの楽曲で中核にエディ・ヴェダーの歌唱を据えている。
- 同時代の他のグランジ・ロック、オルタナティブ・ロックに多いデカダンス的な表現は少なく、中期の作を除いておおむねストレートな王道型のロック・サウンドを主流にしている。もっとも、3作目を中心にして「重々しさ」や「深刻さ」の表現に関して特徴がある。
- 総じて、従来のロック・ミュージックのカテゴリーでは、ヘヴィ・ロックに最も近いサウンドである。
- 各アルバムにおいて静と動のコントラストを際立たせる構築になっている。
- 1作目「TEN」は、サウンドに大きな特徴はないものの、近親相姦関係に悩む男がやがて幼女を狙う殺人鬼と化し死刑にされるまでを描いたとされる三部作、前述の「ブラック」など早くもエディ・ヴェダーが頭角を現している。2作目「VS」ではキャッチーなメロディーも多くみせ、ポップと評された。この作品は発売1週間の最速売り上げ記録を樹立し、レジクラッシャーとまでいわれた。3作目「ヴァイタロジー」は、それまでの作風と大きく異なり、パンク的手法を中核にすえた上で、前述したような音楽的な表現の豊かさもみせている。この3作目には、当初ビニール盤で発売されてCDセールスランキングに異例のチャート・インをはたしたというユニークな経緯があり、作中にもCDを否定しビニール盤を推奨する内容の曲がある。また、この3作目にはカート・コバーンの死が影響していると評されているが、メンバーは「彼の死を利用するつもりはない」とそれを否定する見解も示している。以上3作品がグランジ・ロックを代表するアルバムといわれる。その後も堅実に作品を提供し続けている。1998年には、ファン・クラブ向けのクリスマス・ソング「ラスト・キス」(J・フランク・ウィルソンのカバー曲)がビルボードのシングル・チャートで2位に入って、異例のスマッシュ・ヒットを記録した。また6作目「バイノーラル」では、バイノーラル録音にも挑んでいる。
- 頻繁にライブ活動を行う。観客にダイブし、聴衆の中で歌うというパフォーマンスが初期の特徴であった。
- ニール・ヤングを敬愛して、ミラー・ボールというアルバムに参加するなど共演したり、ライブでは彼の曲のカバーを何度も演奏するなどしている。また、ニール・ヤングに限らずザ・フーやザ・クラッシュなど、ライブでは彼らが支持するバンドのカバー曲をたびたび演奏している。逆に、パティ・スミスやREM等によりパール・ジャムの曲をカバーされ歌われたこともある。
- ジェフ・アメンが中心となって活動しているスリー・フィッシュ、マイク・マクレディが中心となって活動しているザ・ロックフォーズ等、メンバーはサイド・プロジェクトとしての音楽活動も多数行っている。
[編集] ファッション
グランジ・ファッションの項目を参照。
[編集] 補足
- マザー・ラブ・ボーンでのデビューで、次世代のトップ・ミュージシャンとしての将来が確実とされていたジェフ・アメンとストーン・ゴッサードであったが、デビュー1週間前にマザー・ラブ・ボーンのボーカルの突然死で壊滅。その後の両名のミュージシャン生活設計の相談相手になっていたのはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバー達であり、当時サン・ディエゴのライブハウス従業員だったヴェダーと週末にバスケをする仲にあったドラムのチャド・スミス (Chad Smith)が「実はボーカリストになりたい」というヴェダーの夢を聞かされたタイミングが一致した為、チャドがエディーの弾き語りデモテープをシアトルのメンバーらに送付したのが加入のきっかけとなる。チャドはそのテープを一切、聴かないまま送付。ヴェダーにはバンド経験が無かったが、シアトル側でそれを知る由がないまま、ヴェダーの素質とチャドの推薦である事を信用しメンバーとして迎え入れる(後日、ヴェダーのステージ不慣れが問題化する)。
- CDにおいて紙ジャケットを導入した。以降、多くのロック・アーティストが同様の手法でアルバム・アートを製作した。
- ヴェダーの人生にとって初のバンド参加がこのバンドで、参加から契約まで数ヶ月しか経たなかった為、デビュー直前まで彼のステージングは素人以下とバンド内外から酷評を受けていた。ある夜のライブでヴェダーがブチ切れてマイクスタンドの根元の鉄板を客に向かって投げつける暴挙に出た瞬間、今日のグランジバンド的とされるステージパフォーマンスが誕生。幸運にもこの時の怪我人は居ないが、会場の壁に鉄板は刺さって騒然となった。しかしこの日を境にヴェダーは生まれ変わったが如く、過激なステージパフォーマンスを展開しグランジスタイルを完成させる事になった。
- テキサス州出身のデイヴ・アブラジーズは南部の男性らしい趣味を持っており、拳銃コレクションを趣味の一つとしていた。セカンド・アルバム「Vs.」のプリ・プロダクション収録中にその趣味の話をしていたアブラジーズをヴェダーは強烈に非難し、軽蔑した。ヴェダーは市民の拳銃所持を政治的に非難していたからであるが、その時にアブラジーズを皮肉る為に思いついた歌詞がそのまま収録曲「Glorified G」として収録されている。ヴェダーは強引にその歌詞での収録を敢行するなど、当時、相当アブラジーズに冷たく当った模様。
- デニス・ロッドマンとの親交関係は彼の著作に記され有名である。また、メンバーの多くがバスケット・ボールを愛する。結成当初、Mookie Blaylock(NJ Netsで活躍していたバスケット・ボール選手の氏名)というバンド名で活動していた程である(レコード契約の際に法的問題を指摘された為、現バンド名に変更)。ちなみに、1991年にリリースしたアルバム"TEN"はMookie Blaylockの背番号である。
- 公式のブートレグを安価で消費者に提供した。
- エディ・ヴェダーはサンディエゴで思春期を過ごし、学生時代は演劇部に所属していた。彼がサーフィンを趣味とすることは有名であり、海洋環境保護のチャリティアルバムに参加している。彼の祖母パールの作るジャムが(美味ゆえに)バンド名の由来になったとするのが最有力説である。
- グランジムーヴメント期に人気を二分したニルヴァーナと比較される事が多い。同郷で同時期に台頭したために同じグランジというカテゴリーに含まれる事が多いが、パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。日本ではニルヴァーナの方が人気を獲得しているが、グランジ・ムーヴメント期におけるアメリカでのパール・ジャムの評価はニルヴァーナと同等かそれ以上であった。
- 生前のカート・コバーンはプレスを通して事あるごとにヴェダー批判を展開して、ヴェダーも負けじとコバーン批判を展開。その批判合戦は泥沼状態で、公私一貫して正真正銘の犬猿の仲のまま平行線を辿る。しかしコバーンの訃報に親族以外で一番ショックを受けていた関係者はヴェダーであったと言われる(ヴェダーは悲しみの余り数ヶ月間は真剣に引退を考えてしまう程の鬱に陥った)。
- アラン・ジョーンズ著 藤本智司 訳「パールジャム・イラストレイテッド・ストーリー」(シンコーミュージック刊)によるとバンド名の由来はヴェダーの祖母=パールの作るジャムが「おいしいから」ではなく、ペヨーテを用いた特殊な幻覚作用を催すジャムを作っていた事に由来するとヴェダーが語っている下りがある。アメリカ先住インデアン民族の伝統的レシピのジャムらしい(ヴェダーの祖母はアメリカ先住民族の末裔)。ヴェダーはそれを小学生時代から朝食のトーストを通して口にする機会があり、小学校登校時にハイになった状態で登校する日があったとインタビューで語っており、その頃からそのジャムを祖母への愛情を込めて「パール・ジャム」と呼んでいたらしい。
- 1作目「TEN」はデビュー・アルバムとしては驚異的な1000万枚を超える売り上げを記録したにもかかわらず、当時の日本では「のっぺりしている」「メリハリがない」「従来のヘヴィ・ロックとの差異がみうけられない」といった批評をうけた。以降、日本における評価が確立するまで時間を要した(「TEN」は結成後すぐに録音に取り掛かったため実際完成度は低いという説もある)。また、欧米での人気に比して、アジア地域では明白に人気が落ちる。
- 人気絶頂期、ヴェダーはラジオの生放送番組出演中に対応した自殺志願のティーンエイジャーからの電話相談を真剣に受け止め、興奮の余り自宅の電話番号を放送中に相手に伝え、「いつでも辛い時には電話して来い!」と発言。その直後から数時間、シアトル市内の彼の自宅のエリア一帯の電話回線がパンクした為、当局から厳重注意を受ける。その後、ヴェダーに生番組出演のオファーは皆無に近い状態が続く。
- ヴェダーはデビューしてからしばらくは全てのファンレターに直筆で返事を書く努力をしていた。事実、移動中など空き時間の多くを返信の為に費やしていた現場を多くの記者に目撃されている(当時は奇行と報道される)。しかし3ヶ月分のレターの返信に1年以上掛かる事になり、2ndアルバム発表後にはレターへの返信を断念。
[編集] メンバー
[編集] 現在のメンバー
- エディ・ヴェダー(vo) 1964年12月23日生まれ
- ストーン・ゴッサード(g) 1966年7月20日生まれ
- マイク・マクレディ(g) 1965年4月5日生まれ
- ジェフ・アメン(b) 1963年3月10日生まれ
- マット・キャメロン(ds) 1962年11月28日生まれ
[編集] 脱退したメンバー
- デイヴ・クルーセン(ds)
- デビューアルバム『TEN』のレコーディング時のメンバー。脱退後キャンドル・ボックスと言うバンドでプレイしていた。
- デイヴ・アブラジーズ(ds)
- 『Vs.』『Vitalogy』でプレイ。『Vitalogy』制作途中で脱退。脱退後は自らのバンド、グリーン・ロマンス・オーケストラを結成。また、スティーヴィー・サラス・カラーコードのアルバムでプレイする等、彼のプレイは様々なところで聞く事が出来る。
- ジャック・アイアンズ(ds)
- 『Vitalogy』制作途中から加入し、『No Code』『Yield』でプレイした。その後のツアーにも帯同する。1998年、持病の悪化により脱退。ちなみにパール・ジャム加入以前はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのオリジナルメンバーでもあった。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] スタジオ・アルバム
『Vs.』以降、アルバムはデジパック仕様でリリースされている。また、2003年には2000年に行われたワールドツアーの72公演が『オフィシャル・ブートレッグ』としてリリースされている。
- Ten (1991年)
- Vs. (1993年)
- バイタロジー(生命学) - Vitalogy (1994年)
- ノー・コード - No Code (1996年)
- イールド - Yield (1998年)
- バイノーラル - Binaural (2000年)
- ライオット・アクト - Riot Act (2002年)
- パール・ジャム - Pearl Jam (2006年)
[編集] ライヴ・アルバム、コンピレーション
- ライブ・オン・ツー・レッグス - Live On Two Legs (1998年)
- ロスト・ドッグス - Lost Dogs (2003年)
- ライブ・アット・ベナロヤ・ホール-Oct.22,2003 - Live At Benaroya Hall (2004年)
- リアヴューミラー(グレイテスト・ヒッツ 1991-2003) - Rearviewmirror (2004年)
[編集] シングル
基本的に限定生産であるため、時期を逃すと入手が難しいものが多い。
- Alive (1991)
- Even Flow (1992)
- Jeremy (1992)
- Oceans (1992)
- Go (1993)
- Animal (1993)
- Daughter (1993)
- Dissident (1994)
- カップリングとしてライブ・テイクが収録されており、当時はそれが唯一の公式ライブ音源であった。
- Spin The Black Circle (1994)
- Immortality (1995)
- Not For You (1995)
- Merkin Ball (1995)
- ニール・ヤングとの共作“I Got Id”収録。
- Who You Are (1996)
- Off He Goes (1996)
- Given To Fly (1998)
- Wishlist (1998)
- Last Kiss (1999)
- Nothing As It Seems (2000)
- Light Years (2000)
- Bu$hleaguer (2002)
- I Am Mine (2002)
- Save You (2003)
- Man Of The Hour (2003)
- 映画『Big Fish』のサントラ盤への提供曲。
[編集] 映像作品
その活動ポリシーから1993年から1998年までビデオ・クリップを含めた映像作品の製作を行ってこなかったため、初期の公式映像は少ない。しかし1998年以降は積極的に映像作品を製作している。ライブ・ビデオのリリースが多いのは海賊版対策の意味合いが大きい。
- Single Video Theory (1998)
- Touring Band 2000 (2001)
- Live At The Showbox (2003)
- Live At The Garden (2003)
また、上記の映像作品の他にマット・ディロン主演映画『SINGLS』(1992)に当時のメンバー5人がカメオ出演している。
[編集] 外部リンク
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