ピエロ・スラッファ
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ピエロ・スラッファ(Piero Sraffa,1898年8月5日-1983年9月3日)はイタリア出身で、イギリス・ケンブリッジ大学の経済学者。ケインズサーカスの一員、カフェテリア・グループの一人。
[編集] 生涯
彼は商法の教授、アンジェロ・スラッファの息子としてイタリアのトリノで生まれた。その地方の大学に通い、「第一次世界大戦期とその後のイタリアにおけるインフレ」に関する論文で卒業した。スラッファの個別指導教員は、後のイタリアの重要な経済学者であり、イタリア共和国の大統領にもなったルイジ・エイナウディであった。1921年から1922年にかけてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで研究を続けた。1922年には、ミラノ大学、ペルージア大学、カリアリ大学の政治経済学の教授を歴任し、そのころイタリア共産党の指導者であるアントニオ・グラムシとも出会った。スラッファは当時急進的なマルクス主義者であり、彼らは信念を共有しあった親密な友人であった。また、彼はラパロに赴き、イタリア社会党のフィリッポ・トゥラーティと頻繁に接触を保っていた。
1925年に、アルフレッド・マーシャルの費用不変の理論における疑わしい要素を強調した「生産費用と生産量との関係についてSulle relazioni fra costo e quantita prodotta,1925」を執筆し、ミラノ大学のヴェッキオやウィーン学派のオスカー・モルゲンシュテルンが注目し、論評した。1926年「競争的条件のもとにおける収益法則 The Laws of returns under competitive conditions」を、イギリスの『エコノミック・ジャーナル』誌に発表する。1927年、スラッファはその政治信条と革命家グラムシへの友情を危険視されながらも、ケインズを通じてケンブリッジ大学へ招聘され、講師の職を提供された。彼はフランク・ラムゼイやヴィトゲンシュタインとともに〈カフェテリア・グループ〉と呼ばれた非公式のクラブをつくり、そこでケインズの確率論やハイエクの景気変動理論について議論をおこなった。
また、このころからケインズの影響によりリカードの生涯と理論を研究しはじめ、後に《リカード全集 The Works and Correspondence of David Ricard, 11巻 1951-73年》を編集することになる。その業績はジョージ・スティグラーに「リカードは生前も幸運な男であったが、スラッファに助力された死後130年の今ほど幸運であったことはない」と賞賛された。
さらに、ヴィトゲンシュタインの言語分析へのスラッファのユニークな貢献も忘れがたい。ヴィトゲンシュタインの言葉によれば「スラッファの論理は鋭く、それに触れると文脈の余分な枝葉は切り払われて裸になってしまう」と。「言語と実在が、実物と画像のように対応している」とするヴィトゲンシュタインのいう〈論理形式〉は、スラッファがヴィトゲンシュタインとの会話の折りにナポリの人にはよく知られている軽蔑をあらわすのに使われる、片方の指先でアゴを外側へこする仕草をしてみせて、「これは何の論理形式なのかね」という疑問をつけ加えたことで、ヴィトゲンシュタイン自身にも疑わしくなってしまった。スラッファの挙げた例は、ある命題とそれが記述している事柄とが同じ〈形式〉を持たねばならないとすることには、ある種の不合理がある、という印象をヴィトゲンシュタインに植え付けた。後にヴィトゲンシュタインの『哲学的探求』に集約される、日常言語学派の分析哲学はそこから出発したという。
ムッソリーニの牢獄に捕らえられたグラムシとの文通と本の差し入れは、1937年のグラムシの死まで続けられた。かつての友への忠誠は奇妙に長続きし、第二次世界大戦直後、イタリアに共産党の政府ができると早合点して飛行機をチャーターしたことがあると、ガルブレイスの回想中でからかわれてもいる。スラッファの経済分析は政治感覚より冴えを発揮し、広島・長崎への原爆投下直後に日本政府の国債に投資した利益を回収して、日本が長期間貧しい国に留まらないであろうという彼の予想を立証した、というのはよく知られた話である。 スラッファは知性と内気さだけでなく、研究と書物への本物の献身によっても顕著である。現在トリニティ・カレッジに収められている彼の蔵書は8000冊におよぶ。1972年にはパリ大学ソルボンヌ、1976年にはマドリッド大学より名誉博士号が授与されている。
[編集] 業績
主著『商品による商品の生産 The Production of Commodities by Means of Commodities,1960年』はもともと、リカードなどに発展させられた古典派経済学の価値理論を完全にする試みであった。主流であった新古典学派における価値と発展理論の欠点を明らかにし、その代わりとなる分析を提出した。アルフレッド・マーシャルなどが課題とした「完全競争という条件の下での収益逓増という現象」を解決したスラッファの手法は、〈ケンブリッジ資本論争〉を引き起こす。 マーシャルを代表とする新古典学派が想定していた、完全競争が行われている長期の静態的な産業市場では、収益逓減(費用逓増)しなければならないはずだった。ところが現実には企業ごとに収益逓増(費用逓減)している。この謎をどう解くのか。マーシャルの解決は、「外部節約」を導入することで、完全競争の仮定の要請と収益逓増の現実を妥協させることだった。スラッファは、一企業にとっては外部的であっても産業全体にとっては内部的である「外部節約」は、支持しがたい構想だった。スラッファ自身の解決は、完全競争の仮説を放棄し、「市場の不完全性」を導入し独占理論の活用によって「収益逓増論」を構築することだった。
この不完全競争理論の提唱者であるスラッファの仕事が、新古典学派を論駁し得たかどうかは議論の余地がある。新ケインズ学派はスラッファの供給分析を厳密にすることで、新古典学派の完全競争・産業中心のマクロ的な視点を批判する。産業全体の均衡よりも、個々の企業における費用と生産量の「部分均衡」を優先して分析すべきであると、スラッファも考えた。ただし、彼は「完全競争下における費用不変」のテーゼをたてていることからも、新古典学派の一般均衡体系を否定したわけではなく、供給曲線を構成する手続きを問題にしただけである、という解釈もできる。いずれにせよ、彼の著作とリカード全集の編纂は、1960年代の新リカード学派の成立を可能にしたのである。